デイリーディボーション 4月20日(土)

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デイリーディボーション 4月20日(土)

2019年4月20日(土)
マルコによる福音書 4:1-12 1イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。2イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。3「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。4蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。5また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。6しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。7また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。8また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」9そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」10さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。11そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。12それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。」
【ポイント】 ①「悔い改めて赦されることのないため」とは? 12節のことばの真意は何でしょうか。恐らく、イエス様のことばを聞いたユダヤ人はそれがイザヤ書6章9-10節からの引用であることが分かったはずですから、イザヤ書6章全体のメッセージを思い出したはずです。言い換えれば、イエス様は弟子たちにイザヤ書6書を思い出させたかったということです。例えば、イエス様の十字架上での最後のことばは「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(15:34)ですが、このことばも詩篇22篇からの引用であることは、そのことばを聞いていた人々には明らかでした。そして、その内容は「神様に対する嘆き」ではなく、むしろその真逆である「信頼」「希望」の告白なのです。
同じようにイザヤ6章を見てみると、その中心は「預言者イザヤの召命」です。神様はイザヤが神様の御心を人々に語るときに、罪の中にある人々の当然の反応として、心を頑なにして、そのメッセージを聞こうとも、理解しようともしないことを予告されたのです。しかし、神様がイスラエルの民の悔い改めを求めないのであれば、最初からイザヤを遣わす必要はなかったわけです。
イエス様は人々に対し神様のさばき、悔い改めについて語り、ご自身がさばき主であり、救い主であることをストレートに語っても、人々が心を頑なにし、聞くことも、理解することもないことをご存知だったので、あえてはじめから真剣に聞かない物は理解できないような方法で語られたのでしょう。または、イエス様の真意を理解せず、勝手に敵意を燃やしたり、イエス様を社会改革のリーダーとして利用しようとしたりするような者が増えてしまうことを避けられたのかもしれません
しかし、神様がイザヤをイスラエルの民を正しく導くために遣われたように、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」という神様の計画(御心)に変わりはないのです。神様はさばきではなく、救いを望まれているのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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