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2020年4月20日(月)
テモテへの手紙 第一 6:3-5 3違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、4その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、5また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。
【ポイント】 ①「高慢」に注意 自分が「高慢」であると自覚している人はほとんどいません。意図的に聖書に書かれていないことを教えたり、聖書の内容を変えて教えようとしたりする牧師やリーダーも少ないことでしょう。繰り返し学んでしますが、教会が不健全な状態に陥っていく問題の原因の一つは、聖書(福音)から離れていることに対する「無自覚」または「無関心」にあるのです。
今日のパウロのことばからも、パウロは「無自覚」「無関心」ゆえに「私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない」状態に陥っている牧師やリーダーに対し、そしてそれが当然だと思い込んでいる信徒たちに、その問題の深刻さを伝えるためにあえて厳しいことばを用いているのです。
私たちは大丈夫でしょうか。自分たちの教会、牧師、教師が聖書から離れてたことを教えていないか、自分たちの教会の中で、聖書に命じられていない伝統や習慣が行われていることに何の疑問も感じることなく行い続けていることはないでしょうか。「牧師やリーダたちは一生懸命やってくれている」「教会の伝統や習慣も個人的には大好きだ」というような、人間的(肉的)な感情や感覚を優先させてしまっていることはないでしょうか。
パウロは、聖書のみことばよりも、人間的(肉的)な思いを優先させてしまっている人々を「高慢」と表現しています。なぜなら、その態度は自覚の有無にかかわらず、神のことばである聖書の権威よりも、人間の思い、教会の伝統を優先させていることになるからです。たとえ悪意がなかったとしても、神の権威に従わない態度は「高慢」なのです。さらに、この「悪意の無さ」こそ、罪深いことを気づくことが必要なのです。なぜなら、神様との個人的な愛の関係がしっかりと確立していれば、神様のみことばをいい加減になどできないはずだからです。
自分は、キリスト教という宗教を信じているのか、イエス・キリストによって明らかにされた真の神の愛を信じているのか、どちらが神様が喜ばれる生き方なのかをしっかりと考えてみましょう!
ライフチャーチ 大谷信道