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2021年4月20日(火)
ヨハネの手紙第一 5:14-15 14何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。15私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。
【ポイント】 ①キリスト教界に蔓延する間違った理解 ヨハネの福音書15章7節にはこのようにあります。「7あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」この「何でもあなたがたのほしいもの」だけを抜き出して、「熱心に祈れば、神様が必ず願いを叶えてくださる」と、イエス様のみことばをご利益宗教の教えのように変えてしまう牧師・リーダーが後を絶ちません。
しかし、今日の個所では「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださる」と教えられています。神様の御心が行われることを願うことについては、イエス様がゲッセマネで弟子たちに見本を見せられた通りなのです。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:39)
「なんだ、がっかりだな!」と感じてしまった人はいないでしょうか。でも、もしあなたが本当に天の父(イエス様)を愛しているとしたら、愛する人が望んでいることが行われることを願うことは当然のことですね。
さらに、文脈を考えると、ヨハネの「何事でも神のみこころにかなう願い」とは、神様との愛の関係が実現し、神様が私たちのうちにいてくださること、私たちが神様のうちにいることであり、また、私たちが隣人・兄弟姉妹を愛することができること、そして、そのようにしてイエス様を愛し、イエス様の愛の命令に従う者が、永遠のいのちが与えられていることを確信することではないかと思います。
反対に、どれだけキリスト教に熱心になったとしても、キリストの愛の命令と関係ないことに一生懸命になったり、神様との愛の関係を築くこととは別の何かを頑張ることによって永遠のいのちが得ようとしている人には、どんなに強く願っても永遠のいのちは与えられないということになります。ヘブル語の「罪」とは「的外れ」の意味であると言いますが、まさしく的が外れている限り、何をしても私たちは「罪」の中にいることになるのです。
ライフチャーチ 大谷信道