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2021年4月21日(水)
ヨハネの手紙第一 5:16-17 16だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。17不正はみな罪ですが、死に至らない罪があります。
【ポイント】 ①「死に至る罪」とは? 今日の「死に至る罪」ということばの理解には昔から多くの議論がなされてきたようです。しかし、私たちにとって重要なポイントは、「死に至る罪」が何であるのかを特定することではなく、「いのちに至る道」が何であるのかを知ることです。「いのちに至る道」を歩んでいれば「死」について心配する必要はないからです。
それでは「いのちに至る道」とは何でしょうか。これは福音の根幹にかかわる質問ですから、即座に答えが思い浮かばないとしたら、自分がいのちの問題について危機的な状況にあることを知らなくてはなりません。イエス様はヨハネ14章6節でこのように宣言されました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」また17章3節では「3その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」とも説明されています。つまり、「永遠のいのち」とはイエス・キリストの愛を知り、愛を受け入れ、キリストを愛するという、「キリストとの愛の関係」が築かれていることなのです。
ですから、教会の中に「キリストのとの愛の関係」と関係の無い「永遠のいのち」について教える者がいれば、その人は確信犯的に真理に背く罪を犯していることになりますから、たとえキリストへの信仰を表明していたとしても、その人はキリストのみことばに不誠実であり、キリストとの愛の関係が築かれていないことも明らかですから、「永遠のいのち」を持っていない事、つまり「死に至る罪」の状態にあることが分かるのです。
一方、キリストを愛しながらも、誘惑に負け罪を犯してしまうことはすべてのクリスチャンが経験することです。極端な言い方をすれば、たとえ殺人のような重大な罪を犯しても、旧約聖書では死罪にあたる姦淫のような罪を犯したとしても、罪の自覚があり、悔い改めがあり、キリストの赦しを求め、キリストを愛し続けたいという思いがあるのであれば、キリストはそのような人を拒絶することはないのです。この手紙の1章を再度確認してみましょう。
1ヨハネ1章 8-9節 8もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。9もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
ですから、私たちが本当に気にするべきは、私たちが犯してしまってた罪が「死に至る罪」に当たるか否かを考えることではありません。私たちが真剣に気にすべきは「私はキリストを一番に愛しているのだろうか?」という1点なのです。
ライフチャーチ 大谷信道