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2020年4月22日(水)
テモテへの手紙 第一 6:11-14 11しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。12信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。13私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。14私たちの主イエス・キリストの現われの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。
【ポイント】 ①永遠のいのちを獲得する 今日のような箇所を読むときに、「自分は永遠のいのちを獲得できるのであろうか?」と疑問に思ったり、イエス様の約束である「救い」「罪の赦し」などについて、つまり福音そのものに不安を覚えるひともいることでしょう。
そのような不安を覚える人は、自分の信仰の中に「宗教」が入り込んでいること、イエス・キリストの福音を正しく理解していないことに気が付かなければなりません。イエス様はヨハネの福音書17章3節で「永遠のいのち」について次のように語られています。「3その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」言うまでもなく「知ること」とは、天の父とイエス・キリストが愛、恵、あわれみに満ちた方であり、実際にあなたを愛していることを知り、その愛を受け取り、天の父とキリストとの愛の関係を持つことです。ですから、私たちが「永遠のいのち」を獲得するために必要なことは、「宗教的な行い」などではなく、「神様との愛の関係の中に生きること」だけであることが分かります。
もっと言えば、旧約聖書からはっきりと語られている事実として、神様はすべてのご存知の方なので、表面的に律法の行ない、宗教的な儀式を完璧に守っていたとしても、そこに神様に対する愛がなければ、すべて空しいものであることを知らなくてはなりません。「21わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときのかおりも、わたしは、かぎたくない。22たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。23あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。24公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。」(アモス5:21-24)
神様が求められているのは、「表面的な良い行い(律法を守ること)」でも「表面的な宗教的儀式・伝統」でもないことは、旧約聖書の時代から明らかにされているのです。私たちクリスチャンが、このアモス書の数節を神様のことばとして真剣に受け取り、信じ、実践したとしたら、どれほど地上のキリスト教会(キリスト教界)、そして、私たち一人ひとりの信仰が健全なものへと変えられることでしょうか。
とにかく、あなたが自分の「永遠のいのち」について心配があるのなら、やるべきことは一つだけです。「唯一のまことの神」と「イエス・キリスト」を知ること(愛すること)です。どのように宗教熱心を貫いたとしても、この1点をいい加減にする人は、永遠のいのちを得ることはできないのです。永遠のいのちは、神様との個人的な愛の関係の間だけに結ぶ実だからです。(ヨハネ4:36)
ライフチャーチ 大谷信道