デイリーディボーション 4月24日(金)

誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 4月24日(金)

2020年4月24日(金)
テモテへの手紙 第一 6:17-19 17この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。18また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。19また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。
【ポイント】 ①富がもたらす弊害を知る 「金持ちが威張る」という図式は、この世の常です。しかし、パウロの命令を見ると、教会においても同じ傾向が見られることが分かります。これは悲しいことではありますが、決して不思議なことではありません。クリスチャンである私たちも、イエス様の赦しが与えられた後も、罪の性質を持ったままであるからです。
むしろ、教会における問題は、「教会の中には裕福だからと言って威張っている人などいない」というふりをし続けてしまうことです。なぜなら、裕福である人、または、高額の献金を捧げているであろうと思われる人が高慢に陥っていたとしても、その献金による教会への貢献ゆえに、注意しづらい雰囲気ができ上ってしまっているからです。この世の多くの業界で「スポンサーを怒らせてはいけない。」ことが当然になっているのと同じ感覚ですね。
ですから、若いテモテにとっても、高慢の罪に陥っている裕福なメンバーを戒めることは、大変な難しさを覚えるものであったと思われますし、他のリーダーから「教会の財政のことを考えて、事を荒立てないでください。」などという反対があったかもしれません。このやり取りは私の想像(推察)ではありますが、パウロがあえてテモテに指示を与えている事実は、教会の中に、裕福な者の中に威張っている人が実際にいたこと、その問題が放置されていたことを示唆しているのです。
富は神様からの祝福です。しかし、神様からより多くの富を任されているということは、神様からより多くの責任が与えられていることを忘れてはなりません。「レプタ二つのささげもの」を思い出しましょう。神様の目から見る時に、裕福な人ほど少なくしかささげていないという状況があり得るということです。
マルコの福音書 12:41-44 41それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。42そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。43すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。44みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」
ライフチャーチ 大谷信道


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