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2020年4月25日(土)
テモテへの手紙 第一 6:20-21 20テモテよ。ゆだねられたものを守りなさい。そして、俗悪なむだ話、また、まちがって「霊知」と呼ばれる反対論を避けなさい。21これを公然と主張したある人たちは、信仰からはずれてしまいました。恵みが、あなたがたとともにありますように。
【ポイント】 ①この世の「霊知」に騙されない 私たちクリスチャンは、長い歴史の中で「霊知」に騙され続けていることを知らなくてはなりません。つまり、聖書に書かれていないこと、イエス様が滅入れされていないことなどを、いかにも聖書に書かれているかのように教えたり、そのような間違った教えを無批判に受け入れてきてしまった経験を忘れてはならないということです。繰り返し学んでいますが「宗教改革」のきっかけは「それって聖書に書いてある?」という疑問です。しかし、そこでの問題は、当時ラテン語、もしくはギリシャごの聖書を読むことができた司祭たちの多くは、カトリック教会で教えられていること、行なっていることが聖書に書かれていないものであることを知っていたはずだということです。聖書の福音は極めて明快だからです。教会組織のために、自らの保身(出世)のために、見て見ぬふりをしていたのでしょう。カトリック教会の腐敗は、教会のトップだけの責任ではありません。聖書を自分で読むことができない信徒、司祭たちが聖書を正しく教えているはずだという信徒の信頼、その信頼を感じながら、保身のために聖書に書かれていないことを教え続けた司祭たちにも大きな責任があるのです。ただ、巨大組織であるカトリック教会に異議を唱えることは、国家に対する反逆のようなものであったかもしれませんから、司祭たちの気持ちも分からないわけではありません。しかし、特別な教育(ラテン語の読み書き)を受けていない、一般のクリスチャンたちは見事に「霊知」に騙されてしまったのです。
ただ、識字率が上がった現代では、宗教改革の当時とは状況が全く違います。神様は、宗教改革前の世界では一般市民が聖書を読めないことを知っていました。同じように、現代では特に先進国においては、ほとんどのクリスチャンが自分の言語で聖書を読むことができることを、神様は知っています。すべてのクリスチャンはこの現実を重く受け止めるべきです。かつては、クリスチャンが聖書から離れている責任は教会(司祭)にありました。しかし、現代においては、その責任は私たち個人個人に問われるのです。つまり、現代においては、神様の前で「知らなかった」という言い訳は通用しないということです。自分の教会が聖書から離れ、「霊知と呼ばれるような反対論」に染まっていたとしたら、牧師だけでなく、聖書を読むことができるあなたも「なぜあなたは私のからだが不健全な状態に陥っているのを放置したのですか?」「自分だけ礼拝が守れれば良い、自分だけ祝福が受けられれば良いなどと、誰が教えたのですか?」と、その責任を問われることになるのです。
ですから、私たちもテモテもと同じように、神様から使徒パウロを通して「ゆだねられたもの」を守るのです。たとえ、多くのことができないとしても、その責任が与えられていることだけは忘れてはならないのです。
ライフチャーチ 大谷信道