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2021年4月26日(月)
ヨハネの手紙第二 1:4 4あなたの子どもたちの中に、御父から私たちが受けた命令のとおりに真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非常に喜んでいます。
【ポイント】 ①「真理」は宗教的な特別な知識ではない 「宗教からの脱却」というのが、最近のテーマになってしまっています。しかし、福音書のイエス様の律法学者やパリサイ人たちに対しての呼びかけは、人間的な宗教からの脱却だったのではないかと理解するのが自然だと思うのです。完全に世俗化してしまったサドカイ派とは違い、律法学者やパリサイ派の人々は、本来「聖書のみことばへの回帰」を大切にしていたわけです。にもかかわらず、時間の経過とともに、律法学者、パリサイ派の教師たちの信仰が、サドカイ派の人々と同じように世俗化していることにイエス様は大きな危機感と憤りを覚えていたのではないかと思うのです。
マタイ23章を読むと、今説明したことがよく分かると思いますし、同時に、現代の「福音主義」「キリスト教保守派」を自認するクリスチャン、キリスト教会が、イエス様の時代の律法学者やパリサイ派の人々を同じ過ちを犯しつつあることにも気が付くことができるはずです(もちろん、サドカイ派の人々のように、最初から聖書から離れ、世俗化している状態の教団・教派もたくさんあると思います。)。
自覚的に聖書から離れている自覚がある人たちは、自身の信仰を客観的に理解していると思われます。ただ、律法学者・パリサイ人と同じく、福音主義・キリスト教保守派の厄介なところは、「自分たちは聖書的である」「自分たちは真理のうちに歩んでいる」と思い込んでいるので、自分たちが陥っている非聖書的な信仰に気が付くことがないのです。自覚がないので、間違いを正すことができないのです。
しかし、実は、私たちが真理のうちを歩んでいるか否か、聖書的な信仰に留まっているか否かは、極めて簡単に見分けることができるのです。それは、イエス様の命令に忠実に従い、「神様を愛すること」「互いに愛し合うこと」に全身全霊を傾けているのかを見ればよいのです。非常に簡単なことですね。「私たちの教会は聖書的であることを大切にしています!」と言いながら、教会内の不和、争い、分派などが放置されているとしたら、それを見て見ぬふりをしていたとしたら、そのような教会もクリスチャンも「非聖書的」「イエス様に不誠実」「偽善者」と判断されるべきなのです。
この点についてイエス様の前で言い開きをしなければならない瞬間が、すべてのクリスチャンにおとずれるのです。しかし、その時に、一切の言い訳は通用しないことを私たちは知らなくてはなりません。
ですから、ヨハネは「御父から私たちが受けた命令のとおりに真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非常に喜んでいます。」と告白しているのです。もし、神様の子どもであり、神様の家族に招き入れられているのであれば、私たちの何にも勝る喜びは、家庭に愛の実が結んでいることではないでしょうか。そのために、全力を注いだ者は、来るべき時にイエス様からの労いという、最高の祝福をいただくことになるのです。
ライフチャーチ 大谷信道