デイリーディボーション 4月26日(水)

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デイリーディボーション 4月26日(水)

2023年4月25日(火)
【今日のみことば】 ローマ人への手紙 12章3-5節 6私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。7奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。
①特定の賜物に憧れを持っている人は注意! 1960年代にアメリカで起こったカリスマ運動やその後のペンテコステ運動以来、「賜物」についての理解が奇妙なことになっていることを感じます。ある意味、パウロの時代のローマ教会やコリント教会で起きていた問題が再び起こってしまったとも言えるでしょう。それは、賜物に優劣をつけるという、極めてこの世的で肉的な行為です。その結果、多くのクリスチャンが、カリスマ派やペンテコステ派の教会の中で重んじられている、異言、預言、癒しなどの賜物が与えられるように熱心に祈り求めるというような現象が起きているのです。その結果、賜物によってクリスチャンが事実上ランク付けされているという、パウロが手紙の中で教えていることと正反対の現象が起きてしまっているのです。
そもそも「賜物」のギリシャ語は「カリスマ(カリスマ―タ)」であり、その別の意味は「恵み」です。救いに関して言えば「恵み」とは、救いは努力や善行(律法の行ない)によって人間が自分の力で獲得するものではなく、神様の愛とあわれみのゆえに与えられることを指しているわけです。ですから、賜物も、6節に記されているように神様の御心によって「与えられた恵み」であって、人間の意志や希望によって選り好みできるようなものではないのです。
そのような話を聞くと、クリスチャンの中には「1コリント12章31節に『あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。』と書いてあるではないですか!」と反論される方もいらっしゃるでしょう。しかし、それは全くの勘違いなのです。パウロはは「特定の賜物を欲しがったり、賜物の優劣をつけたりするようなことは止め、求めるのであればもっと優れた賜物を求めなさい」と教えているわけです。1コリント12章31節の続きはこうです。「12:31・・・また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。13: 1たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」つまり、パウロにとって最も優れた賜物とは「愛すること」だということなのです。事実、1コリントの13章の一番最後では「13こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」と語り、続く14章1節では「 1愛を追い求めなさい。」と命令しているわけです。これは、賜物とは別の「愛」についての倫理的な教えをしているのではなく、「賜物としての愛」についての教えなのです。
賜物についての理解を間違えると、大きな混乱(分裂、分派、争い、嫉み)が教会の中に起きてしまうという、悪い例がこれほどはっきりと聖書に記されているのにもかかわらず、非常に似たような現象が現代の教会の起きていることに、私たちクリスチャンは大きな違和感、または反省を覚えるべきなのではないでしょうか。
しかし、それは同時に、クリスチャンになった私たちがいかに強く「肉」と「罪の性質」を持っている事の証拠でもあるのです。つまり、より優れた賜物が欲しい、優れた賜物によってクリスチャンとしてのより高い地位を獲得できるというような、肉的な欲望に支配されてしまっているということなのです。
「恵み・カリスマ」の正しい理解は、救いに関してだけでなく、キリストのみからだである教会の形成にも極めて重要なのです。しかし、それは難しいものではありません。私たちクリスチャンがイエス様の命令に忠実に従っていれば良いのです。
ルカの福音書9章23-24節 23イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。24自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。
マタイによる福音書22章37-40節 37そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』38これがたいせつな第一の戒めです。39『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。40律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
ライフチャーチ 大谷信道


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