デイリーディボーション 4月30日(金)

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デイリーディボーション 4月30日(金)

2021年4月30日(金)
ヨハネの手紙第二 1:9-11 9だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。10あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。11そういう人にあいさつすれば、その悪い行ないをともにすることになります。
【ポイント】 ①キリストの真理が気にならない人は… 私は、キリストのみことば(真理)に留まることに真剣に取り組んでいない人は、その人の「信仰による義(救い)」には疑問符が付ていると思っています。なぜなら、それは御子と御子を遣わされた御父を愛し、信じていることにならないからです。
この1点について私たちは絶対にいい加減であっても、ナイーブであってもならないことが、今日の聖書個所から分かります。「あの人はクリスチャンだから」「あの人は〇〇教会の牧師(信徒)だから」などといって、すべての「自称クリスチャン」をキリストのみことばに忠実な兄弟姉妹として無批判に受け入れてしまうことは、決して「愛の実践」ではないのです。もし、明らかに、聖書に書かれていないことを教えたり、信じている人がいたとしたら、真心をもって間違いを指摘することが重要なのです。相手が間違いを認めない場合は、今日の個所にある通り、主にある兄弟姉妹としての関係を持たないという決断、覚悟も求められているということです。
使徒パウロも、1コリント11章で、キリストの教えのうちにとどまっている人とそうでない人が明らかにされるためには、多少の分派は避けることができないと教えています。「18まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。19というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。」
そのような意味で、私は「エキュメニカル運動」を支持していません。もし、私が自分のアイデンティティーが「自分の教派の宗教的な伝統を守ることを使命とした宗教従事者」だとしたら、「お互いの伝統を大切にしていきましょう!」と、各教団教派の共存共栄を大切にするかもしれません。しかし、私はキリストの真理を伝えることを使命としている者であるので、自分の教派であろうが、他教派であろうが、間違いがあればそれを指摘し、よりキリストのみことばに忠実に歩んでいくために試行錯誤を繰り返していくことが、自分の歩みであると考えています。
しかし、それはすべてのクリスチャンの歩みでもあることが、今日の聖書個所から分かるのです。「互いに愛し合うこと」と「なんでも受け入れてしまうこと」は全くの別物であることを知りましょう(ただ、「自分たちだけが真の教会で、それ以外は教会ではない」と謳う教団もありますが、こういう極端にも気を付けなければならないことは言うまでもありません)。
ライフチャーチ 大谷信道


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