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2022年4月5日(火)
マタイの福音書 23章4節 4また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。
【ポイント】 ①重さの原因は「内なるパリサイ人(律法主義)」 人間は律法主義(ルール)が好きなようです。特に日本人は社会の中で共有しているルールを守ることに熱心です。その原因の一つは「同調圧力に弱いこと」だと思います。世界中のどこの地域にも「同調圧力」は存在します。昨日のニュースではロシアで営業を続ける外国企業にネット上で批判をしたり、圧力をかけたりする人々(団体)がいると報じられていました。ロシアに対する経済制裁に同調しろという圧力に他なりません。しかし、経済制裁で直接の打撃を受けるのは収入が激減したり、職を失ったり、場合によっては貧困のために餓死したりする一般市民です。つまり、見方を変えれば国のリーダーに追い詰めるために一般市民を人質に取っているようなものです。自分たちの利益のためでなく、一般市民の生活を守るために制裁に賛同しないという決断を下す企業があるべきではないでしょうか。
共通のルールを守っていることが「良いこと」「正しいこと」であるという感覚は、イエス様の時代のパリサイ人・律法学者だけでなく、現代のクリスチャンにも刷り込まれてしまっているようです。「良いこと」「正しいこと」を行っているという感覚は優越感や達成感につながり、人を気持ちよくさせますし、「良いこと」「正しいこと」を行うと周りから褒められたり、感心されたりしますので、承認欲求も満たされます。そこに「神様」が入ってくると「良いこと」「正しいこと」を行うことによって「自分は神様から認められている」「自分は他の者よりも信仰的である」というような構造ができ上ってしまうのです。人間の肉的な欲求は「優越感」や「承認欲求が満たされている感覚」に非常に敏感に反応してしまうので、人々はさらに熱心に「良いこと」「正しいこと」に取り組んでしまうのです。
しかし、同調圧力に従わない人には「悪者」というレッテルが貼られてしまうのと同じで、「良いこと」「正しいこと」を行っていない人を批判したり、「罪人」というレッテルを貼ったりします。これが「裁き合い」です。他人だけでなく、自分自身を裁く人もたくさんいることでしょう。ルール(律法主義)が支配するコミュニティーの行きつく先は「裁き合い」「比較」「競争」なのです。
律法主義(ルール)に支配される社会には、決定的な問題点があります。それは「正しいふりをすること」「自分の罪を隠すこと」が蔓延し、日常化してしまうことです。これが今日の聖書個所で指摘されているポイントなのです。「神様の正しさ」の基準を自分の努力でパスできる人は一人もいないはずなので、「律法主義」が本当に正しく運用されれば、すべての人が罪人であり、誰一人自分の努力で神様の前で正しい者になることは出来ないという結論に達するはずだからです。そして、その結論に達した人は、神様の憐れみ、神様の一方的な赦しがなければ、神様の前での正しさ(義)を獲得することなど絶対に不可能であると確信するはずなのです。ですから、イエス様は、神様の前に正しい行いをしているかのような振る舞いをしているパリサイ人に特に心を痛められたのでしょう。
私たちクリスチャンも同じです。神様の一方的な愛、憐れみ、赦しが与えられているにも関わらず、この点を忘れてしまっている人はいないでしょうか。他者や自分を裁いてしまうという古い生き方に戻ってしまっている人はいないでしょうか。そこには心の平安はありません。自分の罪に絶望し、神様の愛、憐れみ、赦しの中に生きるときに、自分を縛っていた律法主義、同調圧力、裁き合いから自由にされるのです。
ライフチャーチ 大谷信道