誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。
2022年4月6日(水)
マタイの福音書 23章5-7節 5彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。6また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、7広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。
【ポイント】 ①問題の唯一の解決方法を知る これらのイエス様のみことばから「偉そうな態度を取らない」「謙虚に振る舞う」という「別の律法」に従っている人が少なくありません。心の奥底では「偉くなりたい」「人の上に立ちたい」「人から良い評価を得たい」「注目されたい」「尊敬されたい」という欲望に支配され続けているのだけれど、それを隠し、謙虚な牧師・クリスチャンを演じているのです。恐らく、人を騙すというような悪意はなく、「偉そうな態度を取らない」「謙虚に振る舞う」という別の律法に従おうと一生懸命取り組んだ結果なのだと思います。しかし、その動機付けは、謙虚なクリスチャンとして見られたい(認められたい・尊敬されたい)というような、イエス様の時代のパリサイ人の心の中と大きく変わることはないのです。「隠れパリサイ人」と表現しても良いかもしれません。
問題の本質はどこにあるのでしょうか。実は、その答えは「イエス様の福音」にあるのです。ですから、問題の解決方法は極めてシンプルで、極めて明快なのです。ライフチャーチに通われている方、デイリーティボーションを読まれている方はすぐにお分かりだと思います。それは、神様の愛を受け取ることです。神様があなたを愛し、あなたの良いところも悪いところも理解した上であなたをわが子として受け入れ、赦し、認め、今日も変わらずにあなたを抱きしめ、可愛がってくださっていることを信じることです。どのように頑張って偉くなりたいという欲求や承認欲求を自分の力で抑え込んだとしても、それは単なる「我慢」でしかないので、すぐに限界が来たり、反動が起きてしまうことが多いのです。なぜなら心が満たされないからです。しかし、神様の愛を素直に受け入れることが(信じること)できると、愛で心が満たされるので、偉くなりたい、認められたいという欲求自体が小さくなっていくのです。
「パリサイ人」も「隠れパリサイ人」も、律法を守ること、守っているふりをすることに非常に熱心に取り組みます。しかし、それは「欲望の奴隷」のようなものであることに気が付きましょう。肉の欲望と戦うことは大切です。しかし、残念ながら完全な勝利を収めることは不可能なのです。これは、50年間肉のからだで生きてきた者、長年牧師をしてきた経験から言えることです。結局、人間は「自分のしたいこと」しかしないのです。
しかし、希望があります。イエス様の愛を受け取ると「自分のしたいこと」自体が変わるのです。偉くなること、人から認められることなど「どうでも良いこと」になるのです。神様を愛すること、隣人を愛すること、自分を愛することが「自分のしたいこと」に変えられて行くのです。イエス様のみことばは、我慢して行う「戒律」でも「律法」でもなくなるのです。
ライフチャーチ 大谷信道