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2020年4月7日(火)
テモテへの手紙 第一 4:9-11 9このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばです。10私たちはそのために労し、また苦心しているのです。それは、すべての人々、ことに信じる人々の救い主である、生ける神に望みを置いているからです。11これらのことを命じ、また教えなさい。
【ポイント】 ①真実(真理)の探究をやめない 私は、クリスチャンが健全に成長し、神様の御心に従って歩むためには「福音の正しい理解」と「教会の正しい理解」が絶対に必要だと思っています。宗教改革以来、プロテスタント教会では過去のカトリック教会の中で定着してしまった、聖書的でない福音理解、聖書的でない教会理解を正し、聖書的であることを熱心に追及してきました。そのムーブメントは依然として続いています。プロテスタントであるということは、カトリック教会でない教派に属しているというような意味では全くありません。もちろん、依然としてカトリック教会内で教えられている教理に対して抗議するとう意味もあります。しかし、現代に生きるプロテスタント信徒は、特定の教会に抗議することではなく、自分自身が、そして自分の教会が、非聖書的な福音、非聖書的な教会のあり方に陥ってしまわないように9(カトリック的な信仰に先祖返りしてしまわないように、この世的な考えに惑わされてしまわないように)自分自身と戦う歩みをするクリスチャンでもあるのです。
ですから、私たちは、常に自分が聞いた教えについて、それが聖書的であるのか、つまり今日の個所のことばを借りれば「それは真実なのですか?」「それはそのまま受け入れてしまっていいのですか?」と問いかける者であるべきなのです。世の中には、それが偽物の神、偽の教えだとどっかで気づいていながら、本当であってほしいという勝手な期待の中で何らかの神や宗教を信じている人が大勢います。例えば、神社仏閣で教えられていること、信じられていることが「真実」であるかどうかは、重要ではないのです。
ですから、覚えていて欲しいのです。人がカトリックであろうが、プロテスタントであろうが、保守的であろうが、リベラルであろうが、「真実」「真理」の探究を疎かにすれば、つまり、教えられていることを鵜呑みにしたり、教えられていることが真実であるのか否かを確認する作業をいい加減にしたり、そもそも、真理の探究自体に興味を感じなくなっているとしたら、あなたは、まことの神様から一番遠いところにいるということを覚えていて欲しいのです。そして、現代において一番心配なことは、年代に関係なく「真理の探究自体に無関心」である人が増えているという事実です。
ですから、教会ではつねに福音の真理について教え続けることが求められているのです。
あなたは大丈夫ですか?
ライフチャーチ 大谷信道