デイリーディボーション 4月7日(金)

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デイリーディボーション 4月7日(金)

2023年4月7日(金)
【今日のみことば】 ローマ人への手紙 12章1-2節 1そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
①常に「なぜ?」という疑問を持つ(教えの目的を考える)。 私たち人間は、当然のこととして教えられている道徳・倫理や、日々習慣として定着している行為の目的について考えなくなるという習性を持っているようです。クリスチャンも例外ではありません。決められた宗教的なルーティンを行えば、自分はしっかりと信仰の歩みを続けていると錯覚してしまう人が少なくないのです。例えば、礼拝、祈り、賛美、捧げもの、バプテスマ、主の晩餐、クリスマス、イースターなどについて「なぜ私はこれを行うのか?」と毎回考えているでしょうか。多くのクリスチャンは、これらについて「いつ」「どこで」「どのように」「誰が」などについては、熱心に吟味し、それぞれを滞りなく行っているので、自分たちが思考停止に陥っていることに気づかないのかもしれません。しかし、私たちが本当に常に考え、確認するべきなのは「なぜそれを行うのか?」、つまりその目的なのです。
話が今日の聖句から離れてしまったように見えますが、決してそうではありません。多くの人は12章1節の最も重要な部分が「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」だと思っていることでしょう。そして、次に考えることは「私は、いつ、どこで、どのようにした良いのですか?」ということでしょう。しかし、実はここで最も重要な部分は1節の最初のことば「そういうわけですから」なのです。つまり、私たちがまず考えるべきなのは「そういうわけで?」という、自分のからだを生きた供え物として捧げる理由・目的なのです。それを、理解していなければ、自分のからだを捧げることをどれほど熱心に行ったとしても、それは空しい、形だけの行ないになってしまうのです。
それでは、12章1節の「そういうわけですから」とは、何を指しているのでしょうか?多くの注解者は、1章から11章までの全体だと考えるようです。12章から、これまでの雰囲気が一転し、具体的な信仰の歩みの話が始まっていますから「そいうわけですから」がそれまでパウロが説明してきた事柄すべてを指していると考えるのが適当だと思われます。
では、1章から11章までのパウロのメッセージを要約するとどうなるのでしょうか。 実は、一つのヒントが1節の中にあります。それは「神のあわれみのゆえに」という一言です。つまり、「神様はあなたをあわれんでくださっているのだから、そのあわれみに応答し」ということになるわけです。実際、1-11節までを読み返してみれば、パウロが神様の愛、忍耐、恵み、あわれみについて熱心に説明していることが分かります。
ですから、12章以降を読み進める上で大切なことは、私たちが神様の愛、恵み、あわれみを味わい、「神様の愛への応答として自分は何ができるのか(何かしたい)」という思いへと導かれることです。この部分が抜け落ちてしまうと、私たちの信仰は形だけのものになってしまうか、神様から罰をうけないための義務(おつとめ)になってしまうのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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