デイリーディボーション 4月9日(木)

誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 4月9日(木)

2020年4月9日(木)
テモテへの手紙 第一 4:14-15 14長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。15これらの務めに心を砕き、しっかりやりなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。16自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになりま
【ポイント】 ①自分自身にも、教えることにも、よく気を付ける 私たちは、キリスト教という「宗教」を信じているのではありません。聖書、そして聖書に記されているイエス・キリストの福音を信じているのです。キリスト教の歴史の中で、「特定の宗教団体(教団、教派)の教理、伝統、習慣を受け入れること」と「聖書のみことば、聖書の福音を信じること」が混同されるようになってしまいました。その一番の理由は、「聖書が自国の言語に翻訳されていない」「翻訳されても入手できない」「入手したとしても母国語の文字が読めない」だと思います。つまり、過去においては司祭、牧師から教えられるままを信じるしかなかった時代があったわけです。
しかし、現代は違います。特に日本においては、ほぼ全員が聖書を読んだり、音声を聞いたりすることが可能です。にも、かかわらず「特定の宗教団体(教団、教派)の教理、伝統、習慣」をそのまま受け入れてしまう人が多いのはどういうことなのでしょうか。聖書に記されていない事柄について疑問を持たないのはどうしたことでしょうか。特に、宗教改革の流れの中にあり、「聖書のみ」を原点にしているはずのプロテスタント教会の中ですら、聖書に記されていない教え、伝統、習慣が平然と行われ、聖書を読むことができる信徒がそれに疑問を持たないということは、どういうことなのでしょうか!
それは、多くの人の、信仰の入り口が「特定の宗教団体(教団、教派)の教理、伝統、習慣を受け入れること」であったことを意味しているのではないでしょうか。キリスト教という宗教体系を受け入れることが「信仰」だと思い込んでしまっているのです。そして、聖書を読めば誰でもが気づくであろう、おかしなことが、教会の中で連綿と続けられている背景には、「人々が宗教が好き」という事実があるのではないかと考えています。
自分に「宗教好き」の傾向があるか否かは、今年のイースターで心の中に何を思っているかで判定できるでしょう。イースターを自宅で過ごすことを国や都から要請されている状況は、私たちの信仰を振り返る絶好の機会だということです。つまり、聖書の中には、一言も書かれていない「イースター」「復活祭」、それに付随する伝統行事を教会で行うことができないことに「しっくりこない感じ」「もの足りなさ」、もしくは「不信仰さ」「不安」などの違和感を覚えている人は、自分の中に「宗教好きの自分」がいることに気が付くことができるのです。
しかし、この現象の責任は祭司、牧師にあります。信徒たちは被害者なのです。過去の牧師たちが「本当はこんなこと聖書に書かれていない」と知りながら、宗教・伝統にどっぷりとつかってしまった世論、教団、信徒からの反発や反論を恐れ、はっきりと教えることを避けてしまったのです。
今の時こそ、牧師たちはパウロのテモテに対する命令が自分にも向けられていることを再確認するべきなのです。イースターという伝統行事を行えなかったことが、神様の前では一切問題ないことをはっきりと教え、毎週の礼拝で主の復活を覚えることこそが、神様に喜ばれる歩みであることを教えるべきなのではないでしょうか。
ライフチャーチ 大谷信道


side_worship side_info