デイリーディボーション 4月9日(金)

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デイリーディボーション 4月9日(金)

2021年4月9日(金)
ヨハネの手紙第一 4:15-16 15だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。16私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
【ポイント】 ①「聖書的であること」=「脱宗教」 マタイの福音書23章でイエス様はパリサイ人たちの問題点を的確に指摘しています。例えば、5節には「彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。」とあります。確かに、出エジプト記で、神様は祭司たちの服装について規定していますし、それは大変きらびやかなものであることが分かります。しかし、まことの大祭司であるイエス様が与えられた今、幕屋や神殿を守る祭司は必要なくなりましたし、イエス様ご自身も出エジプト記に規定されている服をまとわれることはありませんでした(復活の前も後も)。同じように、パリサイ人たちのように、自分が特別な者であるかのような服装をすることもありませんでした。
にもかかわらず、他の宗教と同じように、キリスト教会においても、司祭(神父)、牧師が特別な衣装を着ていることが多いのはなぜなのでしょうか。多くの人が「神の前で身なりを整え、栄光を帰すため」と答えるかもしれませんが、それでは一般市民と同じ質素な服をまとわれていたイエス様は、天の父に栄光を帰することができていなかったのでしょうか。決してそのようなことはありません。
信徒にも問題があります。いかにも聖職者らしい身なりを喜ぶ人が多いのです。これはキリスト教に限ったことではありません。もし、葬儀を執り行っている仏教の僧侶、お祓いをしている神道の神官が普通のスーツ(洋服)を着ていたら、何か正式なものでなく、ご利益が得られないようなような感じ、お布施や祈祷料を損した感じ、ありがたみが減ってしまう感じがするのではないでしょうか。司祭(神父)や牧師に同じような感覚を抱いているクリスチャンもいるのではないでしょうか。
これが「宗教」なのです。人々は「ご利益」「満足」を求め、聖職者は人々がご利益を強く感じることができるような演出を行い、その対価をもらうのです。そして、双方が満足するのです。そこには、聖書にするされている「愛」も「信仰」もないのです。ですから、イエス様は、宗教化してしまったパリサイ人たちを厳しく非難されたのです。
さらに、イエス様は、宗教家らしい立ち振る舞いも、禁欲的な雰囲気も醸し出していなかったことが分かります。ルカの福音書5章にはこのようにするされています。「30すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。『なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。』」つまり、イエス様や弟子たちの立ち振る舞いは、普通の人と同じであったということです(決して粗暴だったとか、下品だったということではありません)。
ただ、イエス様が弟子たちに求め、戒めとして与えられたのが「神(キリスト)を愛すること」「互いに愛し合う」ことなのです。イエス様の倫理的な教えはすべてこの2点から出ているのです。ですから、律法に忠実であると自負しながら、この2点以外に不従順なパリサイ人たちを叱られたのです。私たちも同じです。私たちクリスチャンはキリスト教の伝統の継承者ではありません。キリスト教の宗教らしさを維持するためにイエス様に召されているのでもありません。私たちは神様の愛を知り、神様を愛する者となる招き、神様の愛のうちに生きる招きを受けた者なのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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