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2019年5月1日(水)
マルコによる福音書 4:33-34 33イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。34たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。
【ポイント】 ①「聞く力」とは? 33節の「聞く力に応じて」という表現はどういう意味なのでしょうか。新共同訳聖書でも「聞く力に応じて」と全く同じ訳語を与えています。ギリシャ語を直訳すると「聞くことができるように」となるようです。ギリシャ語「聞く・アクオー」という言葉は、新約聖書中に418回も出てくるお単語です。しかし、その意味は「聞く」よりも広く、「注意深く聞く」「聞いたことを熟考する」「聞いたことを理解する」という意味も含まれます。つまり、イエス様は人々が「人々が注意深く聞く姿勢に応じて」「人々が聞いたことを熟考する熱意に応じて」または「人々が理解できる範囲で」お話をされたということです。
つまり、イエス様はご自分の教えを強要したり、人の理解力を超えた難しい話をしたりせず、人々の「聞きたい」「理解したい」という思いを喚起するようなスタイルを取られ、そのための最適な道具として「たとえ」を用いられたのです。ですから、私たちが「ぼーっと」イエス様のみことばを読んでいる間、受身の姿勢で聖書を読んでいる間はイエス様の真意を受け取ることはできないということです。反対に、自分の生死に関わる何よりも重大な事柄としてイエス様のことばを真剣に聞くときに、イエス様は必ずご自分の伝えたいことを伝えてくださるということなのです。これが聖書(みことば)の興味深い性質の一つなのです。
あえて厳しい言い方をすれば、「聖書はなかなか難しくて理解できません。」といっている人は、真剣に読んでいないだけだということなのです。イエス様のことばを注意深く聞き、なんとか理解してみようという必死さ、そこに自分の生死にかかわる人生において最も重大な事柄について触れられている危機感(自分の人生に対する真剣さ)を持っていない人が、教養のため、よい教え得るため、励ましを受けるためぐらいの姿勢で聖書を眺めていてもイエス様のみことばを理解することができないのです。
マルコ4章には警告と励ましの両方が含まれていました。聞く耳を持たない者は滅びへの道を進み、真剣に聞く者はだれでも神様の奥義を知り、豊かな収穫いただくことができるのです。両者の違いは知力でも学力でもありません。イエス様のみことばに耳を傾ける真剣さだけの違いなのです。
ライフチャーチ 大谷信道