デイリーディボーション 5月10日(月)

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デイリーディボーション 5月10日(月)

2021年5月10日(月)
ユダの手紙 1:1-4 1イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟であるユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ。2どうか、あわれみと平安と愛が、あなたがたの上に、ますます豊かにされますように。3愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。4というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。
【ポイント】 ①自分たちは無関係だと思ってはならない 昨日の礼拝でもお話しましたが、現代の福音主義の教会(クリスチャン)を含む、聖書が誤りの無い神のことばであると信じている保守的なプロテスタンと教会の問題は自分たちの信仰が「聖書的」であると信じ込んでいることです。これは、私の想像ですが、カトリック教会、正教会の教職者たちは自分たちの教理、伝統の中に聖書に書かれていないことがたくさん含まれていることを自覚しているはずです。そうだとしたら、プロテスタンとの福音主義クリスチャンよりも、彼らのほうが自分たちの信仰を客観的に理解できている可能性があるわけです。
というわけで、私たち福音主義クリスチャンは「自分たちは聖書的である」という思い込み(洗脳)から解き放たれ、自分たちの信仰の歩みの隅々までを新鮮な思いで検証し、聖書に書かれていないことが行われていないかを検証する必要があるのです。この(自己)批判的な態度こそが、福音主義(聖書主義)を大切にしたいと思うクリスチャンのあるべき姿なのではないでしょうか。
この「自己批判」がなければ、ユダが指摘しているように「ある人々が、ひそかに忍び込んで来た」というような出来事すら察知することができないことになってしまいます。キリスト教会は「宗教改革」という、きわめて重要な「自己批判(自己検証)」の機会が与えられました。イエス様はユダヤ人であったわけですから、イエス様の福音とは、ユダヤ教の中での「自己批判」でもあったわけです。これは、どれだけ強く「聖書信仰」を標ぼうしたとしても、私たちが自己批判を止めると、必ず聖書から離れて行ってしまうことの証明でもあるわけです。
繰り返しお話していることですが、例えば、クリスマスなどの教会行事(伝統)に何の疑問も覚えないとしたら、あなたも「ひそかに忍び込んできた」教えに洗脳されてしまっている一人である可能性があるのです。私たち福音主義(聖書主義)を大切にしている牧師、信徒は、自分が思っているほど聖書的でなく、依然としてユダヤ教やカトリック教会の聖書的でない悪い影響をたくさん受けていること気が付く必要があるのです。つまり、ユダの指摘は決して他人事ではないということなのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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