誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。
2022年5月10日(火)
マタイの福音書 24章45-51節 45主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべとは、いったいだれでしょう。46主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。47まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。48ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい』と心の中で思い、49その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、50そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。51そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
【ポイント】 ①忠実な僕として生きる 人間の主人と違って、神様は常に私たちと共にいてくださいます。共にいるだけでなく、私たちを愛し、語りかけ、導いてくださるのです。しかし、そのような神様との愛の交わりは自然に起こるものではありません。現実には、神様は、家を空けている人間の主人のような部分があるからです。私たちは神様の姿を肉眼で見ることも、その声を耳で聞くことも、そのからだを手で触ることもできないのです。ですから、私たちに与えられているチャレンジは、主人が留守である僕と大変よく似ているのです。つまり、主人がそこにいて、自分を見ているように振る舞うこと、主人がそこに居ても、居なくても、常に同じ忠実さで主人の家に仕えることが求められているように、私たちも神様が見えても、見えなくても忠実に神様とその家に忠実に仕えていくことが求められているのです。
ここでの不忠実な僕の問題点は、想像力の欠如です。つまり、主人が返ってきたときに何が起こるのかを想像できていないことです。これは、罪の最大の特徴です。人間が罪を犯してしまう最大の理由は、自分の欲望、欲求を満たすことで頭がいっぱいになり、自分の行為がどれほど深刻な結果をもたらすのかを想像し、考えることができないことにあります。と言うことは、私たちが神様に忠実に生きたいと思うときに、最も重要なポイントは、神様とお会いする時のことを想像し続けることだと言えます。それが、このたとえ話のポイントなのです。
それでは、忠実な生き方とは具体的にどのようなものなのでしょうか。それは、イエス様の戒めに忠実であることです。イエス様の戒めは極めてシンプルです。ライフチャーチに通われている方はすぐにお分かりだと思います。
マタイの福音書 22:37-40 37そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』38これがたいせつな第一の戒めです。39『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。40律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
今日のたとえ話にでてくる僕の忠実さ、不忠実さを分けているポイントは、主人に対する愛と、仲間(隣人)に対する愛に他ならないのです。人間的(表面的)な宗教熱心さは、忠実さとは関係の無いものです。祝福だけを求めるご利益宗教的な信仰も一見すると、信心深く見えますが、実際には自分の欲求、欲望に忠実なだけの場合が多いのです。神様に忠実であることとは、目の前にいる家族、隣人を神様のために大切にする、それだけのことなのです。
そして、それだけのことが、家庭、社会、世界を変えるのです。
ライフチャーチ 大谷信道