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2022年5月11日(水)
マタイの福音書 25章1-5節 1そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。2そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。3愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。4賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。5花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
【ポイント】 ①結婚と信仰の類似点から救いや再臨について知る イエス様はご自身と人間の関係、そして救いが、人間の結婚に似ていることを明らかにされました。これは、私たちが、イエス様が明らかにされた真の信仰・救いについて知る上で極めて重要なヒントとなります。今日の個所は、救いというより、再臨についての備えの教えなのですが、イエス様と私たちの関係は花婿と花嫁にたとえられていますので、救いについても触れておくことにしましょう。
イエス様は信仰・救いを結婚にたとえることによって、それらが極めてシンプルで、誰にでも理解できるものであることが明らかにされました。結婚や男女の愛について、心理学的、社会学的、医学的にいくらでも難しく説明ができるように、信仰・救いについても、神学的にいくらでも難しく説明することが可能です。さまざまな学問的なアプローチも、人類にとって有益な情報の蓄積になることでしょう。しかし、イエス様は信仰についても、男女の愛についても「双方が自発的な意志によって相手を愛することを決める」という「相互愛」という極めてシンプルな構造があることを明らかにされているのです。
自由主義的な立場をとる神学者・牧師の中には、イエス様の十字架によって全人類が救われていると考える人たちがいるようです。しかし、そのような考え方は、イエス様の結婚の例えによって完全に否定されるはずなのです。もちろん、神様は全人類(すべての罪人)を愛されています。しかし、あなたが誰かを死ぬほど愛し、その人のために全財産を捧げ、求婚してきたとしても、相手があなたの愛に触れ、あなたを愛する決意をしなければ「相互愛」は実現しませんし、当然のことながら結婚につながることもありません。神様は、私たちの意思を無視して、罪の赦しや救いを押し売りする方ではないのです。
今日の個所は、救いについてというよりは、イエス様の再臨への備えのために結婚の例えが用いられています。イエス様再臨を待ち望んでいる私たちも、再臨のためにしっかりとした準備をしていることが求められています。それは、花婿の到着を待つ花嫁に似ているのです。ここで重要なポイントは、花婿を愛し、花婿を待っているのであれば、花婿を迎えるために最善を尽くすことが自然であるということです。イエス様が第一の戒めとして引用されている申命記6章5節には、神様を愛することについて次のように命令されています。「 5心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」愛するとは、単なる心の思いではなく、意志的な決定であり、その決定に基づいて、心も、頭も、身体もフル活用して神様を愛し、大切にすることだと分かります。予備の油を用意してこなかった花嫁が花婿を迎えることができなかったという話は残酷に聞こえるかもしれません。神様のあわれみによって、そのような花嫁を救ってあげるべきだと考える人もいるかもしれません。しかし、ここでも問題は、その花嫁の愛が、神様が教えられている「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」愛と比べるといい加減なものであったということなのです。
ここに、口先の愛と真実の愛の違いを見ることができるのです。
ライフチャーチ 大谷信道