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2022年5月13日(金)
マタイの福音書 25章6-13節 6ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。7娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。8ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』9しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』10そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。11そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。12しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。13だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。
【ポイント】 ①「救い」も「再臨(最後のさばき)」も重要なのは「相互愛」 日本人の男性で「自分は料理ができない」と言う人が多いことについて、ある人が「人間だったら誰でも料理はできます」とつぶやかれたのを聴き、全くその通りだと思った経験があります。そのような男性は料理が難しいものだと勝手に思い込んでいるだけで、実際には手間はかかるかもしれませんし、火や刃物を使うので危険も伴う作業ですが、決して難しいものではないということなのです。
実は、先日触れた通り、ここでの「賢い娘」の「賢さ」についても同じ事が言えます。余分な油を用意していた娘たちの「賢さ」は、決して特別なものではなく、ほんのちょっとの想像力を働かせれば思いつく準備だったはずです。
それでは、その「ほんのちょっとの想像力」はどこから来たのでしょうか。これも先日学びましたが、それは「花婿に対する愛」です。花婿を愛し、花婿を迎えることを一番の楽しみとし、人生で一番大切な瞬間について思いめぐらせる人は、花婿の到着が遅れることを容易に想像できたことでしょう。ちなみに、私は結婚式が人生で一番大切なイベントだとは言っておりません。あくまでイエス様のたとえ話の中に出てくる娘たちの世界観、価値観に合わせて話しているだけです。言うまでもなく、イエス様のたとえ話のポイントは結婚式ではなく、イエス様の再臨であり、それが私たちクリスチャンにとって最も重要な出来事なのです。
この「賢さ」は、この世では「気が利く」とか「サービス精神」という表現がされることがあります。相手の気持ちを深く考える人、相手が欲していることを常に考え、それを実践する人に用いられる表現です。その行動の動機付けが純粋な場合も、そうでない場合(商売や自己の利益のため)もあるかと思いますが、いずれにせよ、他者のためになること、他者が喜ぶことについて想像力を働かせながら時間をかけて考えることが求められるのです。
油を用意してこなかった娘に対する花婿の態度があまりにも無慈悲であると感じる人がいることでしょう。しかし、イエス様が「余分な油を用意しなかった娘」が、「イエス様に対する愛が希薄な人、いい加減な人」の比喩として語られているとしたらどうでしょうか。救いは、「神様の私たちに対する愛」と「私たちの神様に対する愛」という相互愛が実現して起こるものです。イエス様が教える「愛」は命がけのコミットメントです。(ヨハネ15:13、マタイ19:29)余分な油を用意しなかった娘には、イエス様の教えられる愛の姿を見ることができないのです。
ライフチャーチ 大谷信道