デイリーディボーション 5月16日(木)

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デイリーディボーション 5月16日(木)

2019年5月16日(木)
マルコによる福音書 6:30-34 30さて、使徒たちは、イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。31そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。32そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。33ところが、多くの人々が、彼らの出て行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に着いてしまった。34イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。
【ポイント】 ①「羊飼いのいない羊」をあわれまれるイエス様 詩篇23篇を見てみましょう。「1主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。2主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。3主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。4たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。5私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。6まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」
ここでの最大の問題は、当時のユダヤ人がこの詩篇に記されている神様の祝福を味わっていなかったということです。イエス様は、ユダヤ人であればだれでも暗唱でき、親しまれている箇所なのに、人々はあたかもこの詩篇23篇を全くしらない人かのように生きている姿を見たのです。その姿は、イエス様の目には「彼らが羊飼いのいない羊のよう」に映ったのです。その人々の姿に、どれほどイエス様が心を痛めた事でしょうか。
現代のクリスチャンも決して他人事ではありません。なぜならイエス様は異邦人ではなく、旧約聖書を知っているユダヤ人を「羊飼いのいない羊」と呼ばれたからです。つまり、クリスチャンであっても、詩篇23篇に記されている神様と自分との関係を日々味わっていない可能性があるということです。イエス様の時代のユダヤ人たちのように、聖書の内容、メッセージは頭では理解していても、現実の生活の中で神様との関係を享受することができていない状態に陥ってはいないでしょうか。これは、想像ですが、イエス様が最も心を痛められていた点はそこにあるのではないでしょうか。つまり、聖書のみことばが正しく教えられていないこと、人々が聖書の御言葉を通して、神様との親密な関係を築くことができていないことに、あわれみと憤りを同時に覚えられたのでしょう。なぜなら、イエス様は、天の父が何の栄養にもならない「絵に描いた餅」を与えられる方ではなく、私たちに「青草」や「清水」を与え、「私たちのたましいを生き返らせる」ことができる方であることを知っていたからです。
あなたはどうでしょうか。すでに目の前に「羊飼い」(天の父・キリスト・聖霊)がおられ、「青草」や「清水」(主のみことば)が与えられているのに、その祝福を味わっていないことはないでしょうか。特に、聖書のみことば(約束)を信じることを通して、神様との親密な関係(信頼関係)を築く歩みを続けることができているでしょうか。
ライフチャーチ 大谷信道


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