デイリーディボーション 5月20日(木)

誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 5月20日(木)

2021年5月20日(木)
マタイの福音書 2:1-7 1イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」3それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。4そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。5彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。6『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」7そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。
【ポイント】 ①キリストの誕生の記述をどのように理解するか 4つの福音書のうち、イエス様の系図や誕生の経緯を記録しているのは、このマタイの福音書とルカの福音の2つです。マルコの福音書とヨハネの福音書は、イエス様の誕生について一切触れていません。私自身は、マタイ、ルカの福音書の著者は、見たまま、聞いたままの真実を記録したと信じていますし、また、そうさせしめたのは神様であると信じています。しかし、同じように、マルコとヨハネの福音書に系図や降誕の記述を入れさせなかったのも、同じく神様の導きであると信じます。
つまり、福音書の著者は、他の福音書や、文書としてまとめられていない伝聞情報を知りつつ、自分の福音書を完成させた可能性がありますから、マルコとヨハネは、自分の福音書を読ませたい対象(宛先)の人々が、イエス様を救い主として信じるために系図やその核心が処女降誕であるイエス様の誕生の経緯を記す必要はないと判断した(そのように聖霊に導かれた)と理解することもできると考えます。
ということは、「処女降誕」を信じることがイエス様を信じるための絶対条件ではないということなのです。もし、そうだったとしたら、神様はすべての福音書の著者に、誕生の経緯を書かせたでしょうし、それが記されていない福音書は偽典として新約聖書27巻から削除されるべきだったはずでしょう。しかし、実際にはマルコとヨハネの福音書は正典として新約聖書に加えられているわけです。
イエス様がナザレと言う片田舎の木工職人の息子であると知っていたユダヤ人にとっては、イエス様は「どこの馬の骨とも知れない者」であったわけですから、血筋についての情報(預言を成就していること)を記さなければ、福音に聞く耳すら持ってもらえなかったことでしょう。一方、私たちを含む「異邦人」にとってみれば、旧約聖書の預言の成就よりも、イエス様の実際のことば、行ないのほうが、ずっと重要なわけです。実際、どの福音書にも、イエス様が「私は聖霊によって受胎した処女から生まれた特別な者なのです。だから私を信じなさい!」などと発言していたとは、一切記されていないのです。反対に、イエス様の処女降誕について一切知らない(知らされていない)人々が、実際のイエス様に出会い、そのみことばを聞き、その行いを見て、イエス様を神の子として信じた人々が新約聖書にたくさん記録されているのです。
と言うことは、今あなたが系図、処女降誕などを信じることができないとしても、それは不信仰でも何でもないということです。私たちにとってもっと大切なことは、現実のイエス様と出会うことなのです。実際の目撃者が当事者(マリア・ヨセフ)しかいなかった誕生の秘話よりも、多くの人が実際に聞いたイエス様のみことば、実際に目にしたイエス様の業、そして十字架と復活のほうが、私たちがイエスが神の子であり、神であると判断する際の重要な証拠なのです。
ライフチャーチ 大谷信道


side_worship side_info