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2020年5月21日(木)
テモテへの手紙 第二 4:5-8 5しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。6私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。7私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。8今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。
【ポイント】 ①神様の御心を行う者は苦しみを受ける 聖書に記されている神様の御心について知らなかったとしても、この世において正しいと思われることを行っていく人は、必ず困難に出会うということを、私たちは経験として知っています。
例えば、学校で「いじめ」に加わったり、傍観したりする人と、「いじめはやめよう!」と声をあげる人のどちらが楽な生き方で、どちらが困難な生き方なのかは容易に想像できますね。相手から嫌がらせをされたときに、やり返すのと、我慢するのでは、後者が大変なことは明白ですね。
すべての人間は「罪の性質」を持っています。クリスチャンも例外ではありません。そして、地上での生活の多くの場合、楽な生き方は、罪と結びついていることが多いのです。残念なことに、某国大統領をはじめ、世界の多くのリーダーが「自国の利益を優先し、世界の平和のために困難な道を選択することをやめよう!」と提唱し始めています。本当の正義や平和のために困難を経験することは「悪いこと」であり、自分が得をすることが「良いこと」という価値観を何の恥ずかしげもなく広めようとしているのです。人間の罪の性質は、このような価値観を好みますから、賛同する人も少なくないのです。
私たちクリスチャンは、そのような風潮に流されてはならないはずなのですが、残念なことに、クリスチャン人口が多い国においても、自国第一主義を掲げる人物が選挙で勝利してしまう現実から、その国に住むクリスチャンも、聖書とは別の価値観に影響を受けてしまっている可能性があることが分かります。「神の国」のことよりも「自国の繁栄」を優先させてしまったか、「自国の繁栄=神様の祝福」という間違った方程式を信じてしまっているのか分かりませんが、外から見る限りでは、聖書的な信仰が働いているようには見えないのです。
ですから、私たちクリスチャンは常に神様の聖書に神様の御心を求め、困難な道であることを理解しつつ、あえて御心の実践を続けていく必要があるのです。この世での「得」が「祝福」であるという近視眼的な信仰に陥ることなく、「かの日」にキリストからの労いを受けることこそが本当の「祝福」であるという、神の国価値観を持ち続けることが大切なのです。
ライフチャーチ 大谷 信道