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2020年5月22日(金)
テモテへの手紙 第二 4:9-18 9あなたは、何とかして、早く私のところに来てください。10デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。11ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。12私はテキコをエペソに遣わしました。13あなたが来るときは、トロアスでカルポのところに残しておいた上着を持って来てください。また、書物を、特に羊皮紙の物を持って来てください。14銅細工人のアレキサンデルが私をひどく苦しめました。そのしわざに応じて主が彼に報いられます。15あなたも彼を警戒しなさい。彼は私たちのことばに激しく逆らったからです。16私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。どうか、彼らがそのためにさばかれることのありませんように。17しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私は獅子の口から助け出されました。18主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、御栄えがとこしえにありますように。アーメン。
【ポイント】 ①パウロが何のために苦しんでいたのかを知る パウロは、異邦の地における福音宣教、教会(キリストのからだ)形成の働きに自らを献げました。イエス様からその働きに召されたからです。パウロの歩み、手紙の内容を見ると、パウロは与えられた使命に最後まで忠実だったことが分かります。例えば、ガラテヤ人の手紙の2章などを見ると、エルサレムの教会では信徒の中における「上下関係」が形成されつつあることをパウロが肌で感じていたことが分かります。「6そして、おもだった者と見られていた人たちからは、――彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません――そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。」「9そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。」(ガラテヤ2:6、9)ペテロやヤコブが自分から偉そうに振る舞っていたのか、周りの人が勝手に彼らを特別扱いしていたのかは分かりません(おそらく後者でしょう)。しかし、パウロに関しては、パウロ自身が使徒としての権威を笠に着たり、偉そうに振る舞ったりしていることを示唆する記述は見当たりません。漁師であったペテロなどとは違い、パウロはユダヤ人社会のヒエラルキーの最上階で生きていた人なので、序列によって形成されている社会の構造、ユダヤ教の構造の問題点をよく知っており、同じ間違いを犯してはならないという思いを抱いていたのかもしれません。いずれにしても、パウロは迫害や仲間からの裏切りに遭いながら、最後まで謙虚に主に仕え続けたのです。
このパウロの苦しみは、パウロがイエス様に従い続けた結果であり、パウロがイエス様の真理に純粋に従い続けた結果なのです。一言で言えば、イエス様を愛した結果なのです。確かに、パウロは人々にも、教会にも尽くしていたことは明らかです。しかし、パウロは人の為に苦しみを受けていたのではなく、主の栄光のために人々と教会に仕え、苦しみを受けていたのです。そして、パウロは、そこに自らの喜びや祝福を覚えていたのです。
神様は、全てのクリスチャンが、あえて苦しみの道を選ぶように命令しているわけではありません。しかし、神様の聖い性質、この世の罪の性質から、私たちが神様に従いながらこの世で生きるためには、罪の誘惑に流されず、自分の利益を求めず、苦しみや痛みを覚える生き方を選択することが求められることが多いのです。イエス様はこの罪の世の現実について「2だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)と教えられているのです。
今日の個所を読むときに、「イエス様に仕えた結果がこれでは・・・」と、パウロの置かれている不自由な状況に惨めさを感じる人もいることでしょう。しかし、私たちの本当の希望は、この世ではく、天の御国にあることを覚えましょう。
ライフチャーチ 大谷 信道