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2021年5月29日(土)
マタイの福音書 3:16-17 16こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。17また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
【ポイント】 ①これぞ福音の始まり 17節の「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」という天からの声を直接聞いたユダヤ人は、頭をハンマーで殴られるような衝撃を受けたことでしょう。明らかに神様からの声だと分かる状況(天が開け、神の御霊が鳩のように下って)、ナザレ出身で木工職人の息子のイエスが「神の子」であると聞いたからです。この「声」は、ある意味、マリアの証言(処女降誕)や系図などの証拠を吹き飛ばすほどの力を持っています。事実、マルコは、このイエス様のバプテスマの記述から自分の福音書を始めているわけでが、イエス様の誕生の経緯がなくても、イエス様がキリストであることを十分に説明できると考えたのではないかと個人的には想像しています(当然、ナザレのイエスが本当に神の子であるか否かは、その言動に矛盾がないのか、旧約聖書の預言を成就しているのかなど、その後のあらゆる場面で審査されていくわけですので、この出来事だけが決定的な証拠であるというわけではありません)。
天からの声が衝撃的である理由は、神様がナザレのイエスを「わたしの子」と言われたことだけではありません。神様はナザレのイエスを「わたしの愛する子」と宣言されたのです。旧約聖書の中には、神様を恐れ、敬い、愛する人々が多く記されていますが、父と子のような個人的で親密な愛の関係にある人物はいません。神様が肉体をもった人物と親子のような愛の関係を許される方であるという事実は、神様についての全く新しい情報(啓示)なのです。現代のクリスチャンは神様の自分に対する父のような愛について「当たり前」と感じているかもしれません。しかし、旧約聖書しか知らない人々にとっては、衝撃的な新事実であり、この神様が私たちをも愛の関係の中に招かれているという事実こそが、すべての人類にとっての「良い知らせ」なのです。
ちなみに、「キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は同じ神様を信じている。」というような説明を聞くことがありますが、それは決して正確な説明ではありません。なぜなら、神様はイエス・キリストを通して、ご自身についての情報を100%開示(啓示)されたわけですが、ユダヤ教徒もイスラム教徒も、この神様についての新事実を受け入れて(信じて)いないのです。キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒は、確かに同じ神様に向けて望遠鏡を構えているわけですが、ユダヤ教徒とイスラム教徒は、古い望遠鏡を使っているので、まことの神様を見るには見ているのですが、その姿をはっきりと捉えることができていないのです。ぼんやりとしか見ていないということは、そこから得られる情報には誤りが含まれている可能性があるということなのです。それは、厳密に言えば、違うものを見ているのと同じことになってしまうわけです。
ライフチャーチ 大谷信道