デイリーディボーション 5月29日(水)

誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 5月29日(水)

2019年5月29日(水)
マルコによる福音書 7:31-37 31それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られた。32人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるよう、願った。33そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。34そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ」すなわち、「開け」と言われた。35すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。36イエスは、このことをだれにも言ってはならない、と命じられたが、彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらした。37人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。耳の聞こえない者を聞こえるようにし、口のきけない者を話せるようにされた。」
【ポイント】 ①イエス様の弟子訓練 今日の箇所でも、自分がイエス様の弟子としてそこにいることを想像してみましょう。33節にイエス様は「その人だけを群衆の中から連れ出し」とありますから、やはりイエス様はこのいやしの出来事を群衆にではなく、弟子たちに見せたいと思われていたことが分かります。もし、イエス様がご自分の力をより多くの人に見せたいと思っていたのであれば、この男性を群集の前に立たせ、あたかもショーのような形で癒しを行われればよかったわけです。さらに、36節でもイエス様は「このことをだれにも言ってはならない」と命じられていますから、やはりご自分について「病気をいやす人」として評判が広がってしまうことを避けられていたことが分かります。ですから、イエス様のこの男性の癒しは基本的にイエス様の近くにいた者たちに見せることが目的だったと考えるのです。
36節の「彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらした。」という箇所から、イエス様がご自分の評判を広めるための逆説的な方法として「口止め」を用いられていたと考える方もいらっしゃると思いますが、それは違います。残念ながら、現代の教会でも「評判になること」「有名になること」に喜びを感じる牧師(教会)があるかもしれませんが、そのようなこの世的、商業主義的(姑息)な感覚をイエス様が持ち合わせていたとは考えにくいですね。イエス様は、口止めをしても自分の病気を治す人としての評判が広がっていしまうことをよく知っていましたが、「いやし」はご自身の評判を得るための手段ではないことを明確にされるために、口止めを命じられてたのでしょう。
②イエス様のいやし方にイエス様の愛を感じる イエス様はことばだけで病気をいやすことができる力をお持ちでした。しかし、この男性は耳が聞こえず、話すこともできませんでした。ですから、この男性に何が起きているのかを聴覚以外の感覚で分かるように、聞こえない耳と、話すことができない舌に触れらたのです。男性はイエス様が自分をいやしてくださっていること、そのプロセスを目で見ることによって理解できたでしょうから、「この方は必ずいやしてくださる」という確信、イエス様に対する信頼を深めることができたことでしょう。
③イエスは何者か? イエス様のいやしの真の目的はここにあります。イザヤ35章には「4心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」』5そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。」というメシアの到来のしるしが預言されています。「耳があく」という出来事は、弟子たち、それを目撃した人たちに「メシアの到来」を伝えるしるしだったのです。
ライフチャーチ 大谷信道


side_worship side_info