デイリーディボーション 5月30日(水)

誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 5月30日(水)

2018年5月30日(水)

【通読】
ローマ人への手紙 16:21-26
21私の同労者テモテが、あなたがたによろしくと言っています。また私の同国人ルキオとヤソンとソシパテロがよろしくと言っています。22この手紙を筆記した私、テルテオも、主にあってあなたがたにごあいさつ申し上げます。23私と全教会との家主であるガイオも、あなたがたによろしくと言っています。市の収入役であるエラストと兄弟クワルトもよろしくと言っています。24{私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべてとともにありますように。アーメン。}25私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、26知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。

【ポイント】
①教会の姿を見る
ローマ人への手紙はパウロがコリントに滞在していたときに書かれたと考えられています。その根拠となっている箇所のひとつが23節です。「

私と全教会との家主であるガイオ

」とは、1コリント1章14節「私は、クリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けたことがないことを感謝しています。」に記されている「ガイオ」と同一人物だと思われるからです。また、16章1節「ケンクレヤにある教会の執事で、私たちの姉妹であるフィベを、あなたがたに推薦します。 」の「ケンクレヤ」はコリントの地域であったことも、この手紙がコリントから書かれたと思われる理由の一つです。

このようにして考えてみると、パウロはローマの教会の状況をコリントの教会のメンバーと共有し、さらにパウロがローマの教会に宛てて書いている手紙の内容についても、コリントのメンバーと共有していたことが推測できます。この手紙はパウロが個人的に書いただけのものではなく、コリントの教会のメンバー全員からの励ましの手紙でもあるということが16章全体から感じ取れるのです。

さらに、書かれた手紙についても、「この手紙があなたがたのところで読まれたなら、ラオデキヤ人の教会でも読まれるようにしてください。あなたがたのほうも、ラオデキヤから回って来る手紙を読んでください。」(コロサイ4:16)、「この手紙がすべての兄弟たちに読まれるように、主によって命じます。」(1テサロニケ5:27)などというように、パウロは、その教会のメンバー全員のことを思いながら手紙を書いていることも明らかです。

ということは、現代に生きる私たちもパウロの手紙を読むときに、パウロの時代の教会から私たちの教会に全体に対して書かれた手紙として受け取ることが大切なのです。つまり、パウロの手紙は個人的な学び、個人的なディボーションとして学ぶだけでは、書き手であるパウロ(パウロに手紙を書かしめた神様)は満足されないということです。神様は、パウロのメッセージを教会の群れ全体に聞かせ、教会が群れとして教えを実践していくことを望まれているということなのです。

これまでも繰り返しお話ししてきましたが、近現代に欧米で発達した個人主義の影響を受け、聖書の学び、実践も極めて個人的になってしまっている風潮は否めません。もちろん、聖書から神様は「全体」ではなく「個」を大切にし、愛しされていることは明らかです。しかし、神様はキリストを信じる「個」が群れを形成していくことを望まれていることも明らかです。私たちはこの「群れ」と「個人」を二者択一するのではなく、両方を大切にするのです。しかし、個人主義が蔓延している現代においても、教会を大切にすることをしっかりと学ぶことが大切なのです。

「22また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。23教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1章)

ライフチャーチ
大谷信道

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大谷信道


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