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2022年5月31日(火)
マタイの福音書 26章36-39節 36それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」37それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。38そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」39それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
【ポイント】 ①祈りの基本・究極 イエス様のゲッセマネの園での祈りに、イエス様が教えられる祈りの「基本」と「究極」の方法を見ることができます。「基本」と言うのは、自分の思いを素直に打ち明けるという、非常にシンプルで自然な「対話」です。他の宗教からの影響もあると思いますが、クリスチャンの中にも「祈り」が特別な宗教的な行為(奥義)のようなものだと勘違いしていたり、お経を一方的に唱えるようなもの(特に祈祷文・主の祈り)だと理解している人がいるかと思います。しかし、イエス様の祈りは、あくまでも天の父との自然な対話なのです。私たちの祈りは、天の父に自由に、そして素直に語りかけるものになっているでしょうか。
祈りの「究極」と言うのは、神様の御心を聞き取り、実践することです。実は、神様に自分の思い、願いを打ち明けるだけでは、それは一方的な行為であり、決して対話ではありません。先に述べた通り、イエス様の祈りは天の父との「対話」なのです。もちろん、対話のためには天の父に自由に語りかけることが第一歩となるわけですが、その次に行うべきことは、天の父の返事を聴くこと(考えること)なのです。さらに、その返事は神様の御心なわけですから、その返事を聴き、従うことが求められるわけです。時として、天の父からの返事は「ノー」「待ちなさい」「こういうのはどうですか」と、自分が望んでいる事とは違う返事が返ってくることがあるわけです。子どもと親との対話を考えれば当然ですね。食事前にお菓子をねだる子どもに対して、子どもへの愛ゆえに「すぐごはんだからダメだよ。」「ごはんを食べてからにしようね。」などと、返事をする親が多いと思います。それと同じです。私たちが祈りを通して、天の父に何かをお願いするのであれば、その究極は、天の父の言うことを聞くことなのです。「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」というイエス様のことばからそれが分かるのです。
祈りは自分の願いを叶えるために必要な手続きだと勘違いしているクリスチャンが多いのです。残念ながら、熱心に祈れば、必ず祈りが通じる(願いが叶う)と教える牧師も少なくありません。一方、初めから「それは神様の御心ではない」と決めつけて、神様に願い求めることをやめてしまうクリスチャンもいることでしょう。どちらも、祈りの悪い例であり、イエス様の祈りの姿(模範)とは違うものなのです。
分かりやすいように「基本」「究極」などという言葉を使いましたが、要は祈りは天の父との対話であり、それは人間の親子の対話と大きく異なることはないということです。そして、大切なことは、常にその対話を続けることです。子どもは親との対話を通して学び、成長します。ダメだと分かっていても、お菓子やお小遣いをねだったりします。親からダメだと言われて腹を立てる子どももいます。しかし、それは永遠に続くわけではありません。親との対話を通して、子どもは親の心を知り、成熟していくのです。私たち、クリスチャンも天の父と同じようなかかわりを続けていくことができるということなのです。
ライフチャーチ 大谷信道