デイリーディボーション 6月11日(金)

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デイリーディボーション 6月11日(金)

2021年6月11日(金)
マタイの福音書 5:8-10 8心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。9平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。10義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
【ポイント】 ①自分の信仰の矛盾を自覚する 私たちを含む世界中のクリスチャンは「平和をつくる」ことに全力で取り組んでいるでしょうか。
この点について考える前に、そもそも、イエス様が教えている「平和」がどのようなものであるのかをイエス様の生き様から考えてみましょう。ヨハネ14章でイエス様は「平和・平安」について次のように教えています。「27わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」ここでの「世が与える平安」とは、イエス様の時代にローマ帝国によって実現された一時的に戦争がない状態だとおもわれます(その時代はパックスロマーナと呼ばれています)。つまり、イエス様の教える平和・平安とは戦争の有無とは直接関係ないことが分かります。そういう意味では、世の中に戦争がなければ平和であるとも限らないということです。
イエス様のみことば、そして聖書全体からみることができる「平和・平安」とは、私たちの心の中の「平和・平安」であり、その状態は「神様との和解」によって実現するものです。ローマ5章10-11節を見てみましょう。「10もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。11そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」神様と敵対している人間の心の中に「平和・平安」が実現することはありません。そして、イエス様は、私たちと神様との間に「平和・平安」を作り上げるために、十字架で死なれたのです。イエス様こそが「平和・平安」の作り主なのです。
そして、イエス様の十字架にによって神様との和解が与えられたことを信じる私たちは、神様との関係だけでなく、自分以外の人々との和解を実現する生き方へを導かれるのです。エペソ2章を見てみましょう。「14キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、15ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、16また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」ここでの「両者」とは「ユダヤ人と異邦人」を指していますが、「自分と自分以外の者」と適用することができます。
さて、全世界のクリスチャンはこれらの聖書のメッセージに忠実に「平和」を作り出す者として歩んでいるでしょうか。残念ながら、自国における戦争がない状態、自国の軍事力によって他国を支配し戦乱を治めている状態、また、その結果として自国が経済的、物質的に豊かになることが「平和」だと思い込んでいるクリスチャンが多いいのです。その状態が「イエス様の与えられる平和」ではなく「ローマ皇帝が与えた平和」と同じことであることに気が付いていないクリスチャンが多いようです。キリストの名を語りながら、目指していることは「ローマ帝国のパックスロマーナ」と何ら変わらないことになっていることに気が付かなければなりません。聖書の教える「勝利者」とは、決してそのような者ではないことを今一度すべてのクリスチャンが知る必要があるのです。
ローマ人への手紙8章35-37節 35私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。36「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。37しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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