デイリーディボーション 6月14日(火)

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デイリーディボーション 6月14日(火)

2022年6月14日(火)
マタイの福音書 27章1-7節 1さて、夜が明けると、祭司長、民の長老たち全員は、イエスを死刑にするために協議した。2それから、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。3そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、4「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と言った。5それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。6祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから」と言った。7彼らは相談して、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした。
【ポイント】 ①善悪のレッテルから自由になる ユダは悪者、祭司長(祭司たち)も悪者という先入観を捨ててみましょう。今日の個所からユダがイエス様を愛していたことは明らかです。人間的な思いから、祭司長たちにイエス様の居場所を教え、逮捕に協力するという失敗を犯してしまいました。しかし、その行為がどれほど重大な結果を招くかと言うことは想像できていなかったようです。結果を想像できず、その結果に後悔するというのは罪の特徴の一つなのです。ただ、後悔するということは、そこに良心が残っている証拠であり、悔い改めを促されている証拠なのです。
放蕩息子の例からも分かるように、私たち人間は実際に失敗をしないと自分の罪深さに気が付かないものなのです。放蕩息子の兄は優等生的に生きていましたが、父の愛を受け取らず、父を愛することもしていませんでした。しかし、放蕩息子は罪を犯した結果、父の愛に気づき、父を愛する者となったのです。ユダの自殺は呪われた者の結末のように語られることがありますが、決してそうではないのです。イエス様に赦しを求めることもできたかもしれませんが、ユダとしてはそのチャンスがない取り返しのつかないことをしてしまったと考え、自殺して責任を取るという選択肢しか思いつかなかったのでしょう。
祭司長たちはどうでしょうか。彼らは特別に邪悪な存在だったのでしょうか。そのようなことはありません。聖書の時代から現代に至るまで、宗教や組織化された宗教システムの構築、維持に熱心な人々はたくさんいます。もちろん、その中には純粋な信仰を持っている人が多いと思いますが、残念ながら、献金(収入)を増やすために、信徒の獲得すること、献金額を増やすことに熱心な人々は少なくありません。そのような意味で、イエス様の時代の祭司たちが特別にあ悪意に満ちた集団だったのかと言うと決してそうではないのです。
イエス様の時代の祭司たちは、自分たちが先人から受け継いだ神殿を中心とする宗教システム・ビジネスを維持・管理すること、そして自分たちの仕事(収入)を確保することに必死だったのです。祭司長の住宅跡と思われる遺跡が発掘されているようですが、彼らは大変優雅な生活をしていたと考えられています。それは、日本でも非常に規模の大きい仏教、神道、新興宗教の代表者なども同じでしょうし、大企業の経営者も同じです。しかし、そこにはたくさんの従事者、従業員がいるわけですから、彼らとその家族を養っていく大きな責任を負っています。ですから、その障害になるような問題があれば、問題を解決(排除)する責任を持っているわけです。
このように、一般的な感覚から聖書を読めば、ユダも、祭司たちも普通の人間であることが分かります。そして、同じく普通の人間である私たちも、彼らと同じ間違いを犯している、または犯してしまう可能性があるということなのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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