デイリーディボーション 6月14日(金)

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デイリーディボーション 6月14日(金)

2019年6月14日(金)
マルコによる福音書 9:33-35 33カペナウムに着いた。イエスは、家に入った後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」34彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。35イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」
【ポイント】 ①結局の問題は「偉くなりたい」 「悪い行い」は罪の本質ではありません。例えば、ガラテヤ5章19-21節に記されている「不品行、汚れ、好色、20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類」などの「肉の行い」は罪の結果であって、罪の本質ではありません。罪の本質は「自分が主権を握りたい」という人間の性質であると思われます。アダムとエバを考えても、彼らの罪は「知識の実」を食べたことではなく、神様の主権を侵そうとしたことにあります。蛇の誘惑の言葉はこうでした。「4あなたがたは決して死にません。5あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。(創世記3章)つまり、アダムとエバに「神のようになりたい」、別の言い方をすれば「誰の言いなりにもなりたくない」「偉くなりたい」と思わせた時点で悪魔の誘惑は成功していたのです。
残念ながら、この罪本質を見落としてしまっているクリスチャンが少なくないのです。教会内、教団内での覇権や主導権争いが後を絶ちません。表面的に「悪い行い」をしていなければ、教会内、教団内で勢力争いに加担していても罪の意識すら感じていない可能性があります。罪に完全に支配されている、この世の組織の中で主導権争いが存在することはごく当然のことだと言えます。しかし、弟子たちは既に「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(8:34)というイエス様教えを招きに応え従っていました。にもかかわらず、弟子たちの間に「誰が一番偉いのか」という議論がされていた事実は、私たちクリスチャンも全く他人事でないということなのです。
私たちも依然として「自分が一番偉くなりたい」という欲求を持っていることを正直に認め、この欲求に自分の心を支配させないように日々自分の心を監視することが大切なのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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