デイリーディボーション 6月17日(金)

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デイリーディボーション 6月17日(金)

2022年6月17日(金)
マタイの福音書 27章15-17節 15ところで総督は、その祭りには、群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免してやっていた。16そのころ、バラバという名の知れた囚人が捕らえられていた。17それで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」18ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。19また、ピラトが裁判の席に着いていたとき、彼の妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しいめに会いましたから。」
【ポイント】 ①私たちは誰の目を気にしているのか 今日の個所には「ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。」とあります。ここに、地上における一つの事実を見ることが出来ます。それは、多くの人が「人の目を気にして生きている」と言うことです。為政者(政治家)は市民、国民からの支持率、有力支援者の目を気にします。民法のテレビ局の報道も一般の番組もスポンサーを目を気にしています。雑誌を見ても、取材記事であるはずなのに、スポンサーの言いなりとしか思えないような記事を目にすることが多々あります。つまり、多くの人が誰かに操られ、支配されているということです。
キリスト教会も例外ではありません。細かい内容は記しませんが、牧師や信徒が他の誰かの目を気にしたり、恐れながら行動しているケースがあるのです。つまり、神様の目ではなく、人間の目を気にしながら、もっと言えば、神様の真理ではなく、人間の考えに従って歩んでいるクリスチャンがたくさんいるということなのです。それが当たり前になっているので、神様の真理に従っていないという自覚すらないクリスチャンがも多いことでしょう。
もちろん、イエス様の十字架は神様の計画だったわけですが、イエス様が十字架にかけられるまでのプロセスは、その決定に深く関わる人々が真理ではなく、人間的な思いに従って様々な決定をしている様子を見ることが出来ます。ピラトは、妻からの忠告によってだけでなく、自分自身でもイエス様が十字架刑に処せられるようなことを行っていないことを知っていました。しかし、群衆の願いと別の決定を下せば、暴動が起きたり、自分の人気が下がったりすること、つまりローマ皇帝からの評価が下がることを気にして、真理ではなく、人間的な得を選んでしまったと思われます。
私たちはこの失敗から学ばなくてはなりません。教会の歩み、信仰の歩みが人間的な損得などによって捻じ曲げられてはならないのです。しかし、それは決して難しいことではありません。まずは「それは聖書に書いてあるか?」と考えてみることです。それなら、誰でもできるはずですね。人間が作り上げてきた教会の伝統、習慣、常識にみことばの光を当てるのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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