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2021年6月18日(金)
マタイの福音書 5:21-22 21昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。22しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって{理由なくして}腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
【ポイント】 ①純粋に律法を全うしようとすると 旧約聖書では律法を犯すことは罪であると教えられています(参ローマ2:12)。昨日、一昨日の個所から、イエス様は律法を変更したり、廃止する意図は100%ないことが明らかです。つまり、旧約時代の人々も、新約時代の人々も、ユダヤ人も、異邦人も、律法を完全に守らない限り、人間が神様の前に「義(完全に正しい者)」とされることはないのです。
当然、当時のユダヤ人もそのことをよく理解していました。しかし、ユダヤ人の多くは、各種の律法、贖罪の律法を守ってさえいれば、神様のさばきから逃れられると考えていたと思われます。しかし、バプテスマのヨハネ、そしてイエス様が人々に悔い改めを求めたということは、多くのユダヤ人の律法の守り方は不十分であるか、表面的な行いであることを示唆しています。
今日のイエス様のメッセージの意味がよく分かるようになります。つまり、「私は人を殺していませんから、裁きを受けることはありません。」と考えていた人々に対してイエス様は、「兄弟に向って『能なし』『ばか者』という人もさばきを受けることになるのですよ」と教えられたのです。つまり、本来神様が律法を通して教えられた「義」の基準とは、これほど高いものであるのだということを再確認されたのです。
しかし、ここからが問題です。ある人たちは「了解しました。私は本来の義を求めて、律法を守っていきます!」と、再び律法の行ないに熱心に取り組み始めてしまうのです。しかし、それはイエス様の意図ではないのです。イエス様はさらに重い重荷を人々の与えたのではなく、人々が自分の罪の深刻さに気付き、悔い改めに導かれ、「救い」を求めるようになることを願われたのです。マタイ19章を見てみましょう。
マタイ19章23-25節 23それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。24まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」25弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」26イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」
律法の遵守について誰よりも純粋に取り組んだパウロが行きついた結論をローマ7章に見てみましょう。
ローマ人への手紙 7章22-24節 22すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、23私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。24私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
神様の前で合格点がもらえるのではないかと期待している人は、自分の罪深さに全く気が付いていない「おめでたい人」だと言えます。真剣に、そして純粋に律法を全うしようと取り組む人は、必ずパウロのように「絶望」に陥り、降参し、救いを求めるはずなのです。イエス様の今日のメッセージも、私たちにでさらに厳しい律法を与えたのではなく、私たちが自分の罪に絶望し、救いを求めさせるためのものなのです。
ライフチャーチ 大谷信道