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2021年6月19日(土)
マタイの福音書 5:23-24 23だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、24供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。
【ポイント】 ①「宗教・リリジョン」と「関係・リレーションシップ」の違いを理解する 今日の個所でイエス様は、「人が宗教をしていること」と「人が神様との関係に生きていること」の違いを明らかにされています。前者は「宗教的偽善」「信仰の自己矛盾」と読んでも良いかもしれません。
マタイ22章まで読み進めれば、相互愛が神様の命令であることは明らかです。ここまでの個所では、神様の御心が「互いに愛し合うこと」であることは、まだ教えられていませんが、イエス様がその真理に立っていることは間違いありません。そのような視点から見れば、兄弟愛をいい加減にしている人は、神様に対して不従順であることになります。そして、神様に不従順なものが、何食わぬ顔をして、神殿に来て、祝福や赦しを求めているとすれば、その人は明らかな偽善であり、自己矛盾になるわけです。
この問題の本質は、その人が神様との個人的な関係、個人的な対話をしていないことです。24節の「供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」とは、宗教指導者の助言ではなく、神様の声そのものなのです。神様は「そんなことをする前に、あなたはやるべきことがあるでしょ!兄弟を和解しなさい。」と語られているのです。
それでは、私たちも解決すべき問題がある間は、主の日の礼拝に参加しないほうが良いのでしょうか。決してそうではありません。恐らく、ここでの一番の問題は、人々が兄弟と和解できていない状態を全く気にしていなかったこと、または、心に痛みを覚えていなかったことでしょう。別の言い方をすれば、自分さえ祝福を受けられれば良いという自分本位な信仰に陥っていたということです。私は、このような信仰を、ネガティブな意味を込めて「宗教・リリジョン」と呼んでいます。この世の多くの人が宗教を毛嫌いする理由の一つでもあるのではないでしょうか。
イエス様が教えられている信仰はそのようなものではありません。先に触れたように、神様との生きた関りがあれば、もし私たちが自分の兄弟との関係に問題があるときに、神様は「和解したほうがいいよ。」と語りかけてくださるはずなのです。
ライフチャーチ 大谷信道