デイリーディボーション 6月2日(水)

誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 6月2日(水)

2021年6月2日(水)
マタイの福音書 4:8-10 8今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、9言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」10イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」
【ポイント】 ①私たちも試みを受けている その3 程度問題の差こそあれ、この世の多くに人は権力、財力を手に入れることが幸せであり、その反対の状態が不幸せであると感じています。例えば、家庭、学校、職場で権威主義的(いばっている)であることに快感を覚える人、威張られることに屈辱(不幸)を覚える人がいます。チャンスがあると、「威張るー威張られる」という関係が逆転したりしますので、結局両者とも同じ価値観を共有していることが分かります。実は、犬の群れを見ていても同じような力関係が存在していることが分かりますので、群れで行動する動物の本能(性・さが)なのでしょう。
しかし、そのような性は、聖書では「罪」と呼ばれています。なぜなら、権威ある方は神様お一人だからです。確かに、神様が建てられたリーダ、預言者、王たちには神様から与え在られた権威を認めることができますが、それは決して威張るためでも、権威を振りかざすためでもありません。このことは、イエス様の生き様を見ると明らかです。ピリピ人への手紙2章を見てみましょう。
ピリピ人への手紙 2章3-9節 3何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。4自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。5あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。6キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、8自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。9それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
悪魔の誘惑を退けたイエス様は、屈辱を覚えながらでも、我慢しながらでもなく、「ご自分を無にする」ことを喜びとされたのです。それは、イザヤ書53書に預言され、自ら進んで十字架で死ぬことによって、その預言を成就されたのです。
自分は牧師であるのでよく分かるのですが、「大きな教会の牧師になりたい」「有名になりたい」「教団内外の要職に就きたい(偉くなりたい)」という欲求を持っていること、そして、その弱さの部分に悪魔からの誘惑を受けることを知っています。牧師も普通の人間なのです。実は、イエス様も普通の人間と同じ肉体を持たれていました。ゆえに、今日の個所にある悪魔を「誘惑」として理解されたのです。しかし、イエス様はその誘惑と戦い勝利されました。それは、神に仕える私たちがが後に続くことができるようにと示された模範であり、証しなのです。
イエス様はへりくだって神様に仕えていくことの喜びを教えてくださいました。一見、謙虚そうに振る舞いながら、虎視眈々(こしたんたん)と、自分が権力を手にすることを夢見ている人はたくさんいます。しかし、神様の愛を知った私たちは、そのような罪の性質に支配されている古い価値観から解放され、新しい天の国の価値観の中に招き入れられているのです。
あなたは、新しい価値観の中で、自分を無にすることを喜びとする方向に進んでいますか? それとも古い価値観に後ろ髪を引かれるような感覚で歩んでいますか?
ライフチャーチ 大谷信道


side_worship side_info