デイリーディボーション 6月2日(月)

誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 6月2日(月)

2019年6月2日(月)
マルコによる福音書 8:22-26 22彼らはベツサイダに着いた。すると人々が盲人を連れて来て、彼にさわってくださるよう、イエスに願った。23イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両目につばきをつけ、両手を彼に当てて「何か見えるか」と聞かれた。24すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と言った。25それから、イエスはもう一度彼の両目に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。26そこでイエスは、彼を家に帰し、「村に入って行かないように」と言われた。
【ポイント】 ①イエス様のいやしの意味を考える 先日も引用したイザヤ書35章から見てみましょう。
「 4心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。』5そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。6そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」
このほかにもイザヤ書には、メシアの到来の「しるし」として見えない者が見るようになり、聞こえない者が聞くようになることを預言している箇所がいくつかあります(29:18, 32:3, 42:7)。マタイの福音書11章5節では、イエス様はイエス様が何者であるのかを尋ねてきたバプテスマのヨハネの弟子たちに次のように語っています。「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。」イザヤ書を読んでいる者にとっては、このイエス様のことばは「私がメシアである。」という告白以外の何ものにも聞こえなかったはずです。
しかし、「目の見えない者が見」「耳の聞こえない者が聞き」とは肉体的な癒しだけを意味しているわけではありません。ヨハネの福音書9章では、盲人の癒しの出来事の後に、イエス様はその場にいたパリサイ人たちにこのように語っています。
「39そこで、イエスは言われた。『わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。』40パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。『私たちも盲目なのですか。』41イエスは彼らに言われた。『もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」
パリサイ人はイエス様の盲人の癒しの霊的な意味に気づきました。つまり、イエス様のことばを聞き、いやしの業を見ながら、イエス様がキリストであることを頑なに認めようとしないパリサイ人の心の状態こそが、本当の意味での盲目であるということなのです。イエス様が本当に開こうとしたのは、肉体的な盲人の目だけでなく、神を認めない、キリストを認めない、自分の罪深さを認めない人々の頑なな心でもあったのです。盲人の癒しによって、人々にその状態を伝えようとされたのです。
ライフチャーチ 大谷信道


side_worship side_info