デイリーディボーション 6月20日(水)

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デイリーディボーション 6月20日(水)

2018年6月20日(水)

コリント人への手紙 第一 3:18-20
18だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。19なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。「神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕らえる。」20また、次のようにも書いてあります。「主は、知者の論議を無益だと知っておられる。」

【ポイント】
①「今の世の知者」とは?
聖書研究の中心が「教会」から「大学・神学校」、「牧師」から「神学者」に移って長い時間が経っていると思います。教会や教派が運営している神学校の中には「教会に仕える」という立場を大切にしているものも少なくありません。しかし、大学は基本的に「自由な研究・指導」が保証されている教育機関です。さらに、卒業論文や研究者が発表する論文に求められることは「新しいこと」です。以前に誰かが研究し、発表されている内容は論文として認められないのです。このような環境では神学博士になりたい人、研究が認められ大学で教えたいと思う人の頭の中には、ひとりひとりのクリスチャン、一つひとつの教会の成長よりも、自分の研究、研究の独自性などでいっぱいにならざるを得ないのです。今日の箇所でいえば「この世の知者」となることに必死になってしまうのです。

そのような環境の中で育った神学生の中には聖書自体よりも、自分の説や自分の尊敬する神学者の説を教えることに力を注いでしまうこともあるようです。つまり、パウロが指摘している「無益な知者の論議」こそが牧師の務めだと考えてしまう傾向があるのです。聖書を神様のことばとして受け入れるという純粋な信仰のありかたが、愚かしく思えてしまうのです。

キリスト教界の中で、聖書を神のことばとしてではなく人間が書いた書物として、この世の学問と同じアプローチから研究することが「知恵」だと思っている人がこれまでの歴史の中でたくさんいるのです。しかし、そのような態度は、パウロの警告を平然と無視することになってしまっていることに、私たちは気が付かなければなりません。

この世の人からは愚かに見えても、素直に、純粋に聖書のみことばに聞いていくことが大切なのです。

ライフチャーチ
大谷信道


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