デイリーディボーション 6月22日(土)

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デイリーディボーション 6月22日(土)

2019年6月22日(土)
マルコによる福音書 10:17-18 17イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」18イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。
【ポイント】 ①「尊い(正しい)」方は天の父だけ 今日の箇所を初めて読んだ人は、「イエス人はずいぶん失礼はひとだな」という印象を持つかもしれません。せっかくイエス様のところまで来て、ひざまずき、真剣に質問をしている青年(マタイ19:22)人に対してのイエス様の18節のことばは、冷たい印象さえ受けるかもしれません。
しかし、そのよううな「印象」は後の21節の「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた」というマルコの説明で、完全に吹き飛んでしまいます。イエス様は、青年のすべてを理解しながら、彼を愛し、真理に導きたいと思われていたことが明らかだからです。
恐らくこの青年は、教えられてきたユダヤ教の教えを極めて忠実に守っていたという確信を持っていたと思われます。そして、その完全な行いゆえに、自分は永遠のいのちを得ることができるという自信もあったのでしょう。しかし、どこかでイエス様の教えの噂を聞きつけ、もしかしたら自分にはまだ不完全な点があるのではないかと不安になり、それを確認するためにイエス様のところに教えを請いに来たのでしょう。
イエス様は、この青年が「律法の行いによる義」を全うできているという、この青年の勘違いを最初からご存知でした。この勘違いの原因は、この青年の神様の前での「義(完璧さ、正しさ)」の基準が非常に低かったことにあると思われます。ですから、自分は神様の前で正しい人間だと思っていたのです。その証拠に、イエス様に対しても簡単に「尊い(正しい)先生。」ということばを使えてしまったのでしょう。
イエス様の「尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。」ということばは、「青年よ、あなたの義(尊さ)は、本当の「神の義」の足元にも及ばないものなんだよ。人に対しても、自分に対しても簡単に「尊い」などということばを簡単に使ってはいけないよ。」と、青年の一番の問題点を最初に指摘されたのです。
さらに「律法の行いによる義」の問題点は、その信仰に「神様不在」が起きてしまうことです。それは、一見すると信仰的な歩みに見えるのですが、自分んお力で神様の義を全うしようとする試みであり、そこには神様のあわれみや赦しという神様との個人的な交わりが不必要になってしまうのです。イエス様の「尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。」ということばは、青年の神様不在の歩みを指摘し、神様との関係に目を向けさせるためのものだったとも理解できます。
この先は、明日の礼拝で学びます。明日、教会でお会いしましょう!
ライフチャーチ 大谷信道


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