デイリーディボーション 6月22日(水)

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デイリーディボーション 6月22日(水)

2022年6月22日(水)
マタイの福音書 27章27-29節 26そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。27それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。28そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。29それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」30また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。31こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。
【ポイント】 ①イエス様の十字架の目的は? a.天の父の栄光を表し、栄光を帰するため 「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。」(ヨハネ17: 1) 多くの人は、「私(人類)の罪を贖うため」と考えたかもしれませんが、究極の目的は天の父、御子イエス様が栄光を受けることです。神様はご自分の栄光を表されますが、最終的に御子を遣わし、御子イエス様が神様の栄光を100%誰の目にも明らかな形で示されたのです。それが十字架なのです。
b.神様の私たちに対する愛を示すため 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16) 神様の栄光は「愛」という形で明らかにされました。なぜなら、それが神様の本質であるからです。神様の栄光が表されるということは、神様の本質である愛が実際の行為として表されるということです。つまり、神様は「愛(栄光)について教えられた」のではなく、「愛を実践された」のです。私たちも、「愛する」と口で言うことは簡単なことです。しかし、行動が伴わない時には、相手からの愛・尊敬の応答を受けることはないのです。同じように、愛を解き明かす人が掃いて捨てるほどいることでしょう。しかし、愛の実践が伴っていなければ、それは空しいものであるのです。つまり、愛の実践無くして神様の栄光が表されることはないということなのです。
c.私たちが神様を愛するようになるため 「8あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」(ヨハネ15:8-9) 神様はご自身の栄光を表され、栄光を目撃した人間が神様に栄光を帰することを喜ばれます。そこに、私たちの真の喜び、平安があるのです。神様の栄光(愛)は一方通行ではありません。神様は、ご自分に栄光が帰されることを望まれています。そのために私たちがすることは、イエス様の愛の中に留まることです。つまり、イエス様の愛を受け取り、イエス様を愛するという、イエス様との愛の関係の中に留まるということです。さらに、イエス様を愛することには、イエス様の命令である互いに愛し合うという命令を実践することが含まれます。神様を愛しているが、隣人愛には熱心ではないというクリスチャンがいたとしたら、根本的に大きな勘違いをしていることになります。神様を愛し、隣人を愛することの両方を実践しなければ、神様に栄光を帰することにはならないのです。
イエス様は十字架によって、天の父と子の栄光のやり取りについて模範を示してくださいました。イエス様の十字架を見るとき、第一に、天の父がどれほど御子を愛しておられたのか、御子がどれほど父を愛し、十字架の死まで忠実だったのかを知ることが重要です。その次の段階として、同じ愛が私たちにも注がれていることを知ることが出来るのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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