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2021年6月23日(水)
マタイの福音書 5:29-30 29もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。30もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。
【ポイント】 ①「自分の目をえぐれ?」「手を切り落とせ?」 この個所を文字通りに受け取っているクリスチャンの方は少なくありません。しかし、私たちは肉体を持っている限り、罪を100%犯さずに生きることは不可能です。もし、あなたがイエス様を信じ、この個所を文字通りに受け取っているのであれば、あなたが自分の目をえぐり出したり、手を切り落とす必要になる時が必ず来ることになります。反対に、それを実行しないとしたら、あなたイエス様の命令を無視し、背いていることになります。それは、イエス様を信じていないことと同じです。とすると、イエス様を本当に愛するクリスチャンのほとんどは、目の無い者、手の無い者となるでしょうし、一方、両目、両手を持っている人は、自分の力で罪を100%克服できた人(それは不可能なのですが)か、それができたと嘘をついている人ということになります。実際のところ、自分で目をえぐり出したり、手を切り落としたりするクリスチャンを教会で会うことはありませんから(稀に、イエス様のことばを曲解し、実行してしまう人がいるようですが)、私たちの教会は偽クリスチャンの集まりとなってしまうのです。
そのように考えれば、イエス様は「自分の目をえぐれ」「手を切り落とせ」などと命令しているわけではないことが明らかです。これは、イエス様独特の「誇張表現」なのです。私たちが、イエス様のことばを文字通りに受け取りたいのであれば、「誇張表現」を「誇張表現」として受け取らなければ、イエス様が本当に伝えたかったことを受け取れていないことになるわけです。四角四面に聖書のことばを受け取ることが、神様のみことばを正確に受け取ることでは決してないのです。
ここで、私たちが知るべきポイントは、罪の問題、罪の結果は極めて深刻なものであるということです。イエス様は、罪を持ったまま神様のさばきを受けることは、自分で目をえぐり出すことよりも、自分で自分のてを切り落とすことよりも、ずっと悲惨なものであるという霊的な現実を語られているのです。
さらに、重要なポイントは、たとえ自分で両目をえぐり出せさたとしても、両手を切り落とせたとしても、それで罪を犯さなくなるわけではないという事実です。目がいくつあっても、てが何十本生えていたとしても、足りないのです。
イエス様は、人々がこの罪の現実に気が付くことを期待されているのです。「イエス様、それでは私はどうしたらよいのでしょうか?」という質問を待っているのです。そして、その答えは「わたしに従ってきなさい」「わたし(福音)を信じなさい」なのです。
ライフチャーチ 大谷信道