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2020年6月24日(水)
へブル人への手紙 2:5-8 5神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。6むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。7あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、{彼をあなたの御手のわざの上に置かれました。}8万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。
【ポイント】 ①御子は万物の支配者であり、御使いはそうではない また、御使いの話です。しかし、私たちがこの手紙をゆっくりと読んでいるのでそう感じるわけではありません。へブル人への手紙の著者は、確かに御使いについて長く語っているのです。そこから、天使についての間違った理解の問題がいかに深刻だったのかを知ることができます。
または、イエス・キリストを「肉のからだ」を持っていたという理由で、天使よりも見下げようとする人たちがいた可能性もあります。「肉」は汚れであり、「霊」は聖いという観念に縛られている人々は、キリストが肉体を持っていたということに違和感を覚えたのかもしれません。例えば、「イエスは預言者の一人に過ぎない、なぜなら彼は肉体を持っていたからだ!」と考える人々のいたことでしょう。現代においても、それは同じですね。「なぜ人間が神なのか?」「イエスと自称神の信仰宗教の教祖と何が違うのか?」と考える人が大勢いることでしょう。
しかし、聖書を読んでいる私たちは、御子が肉体を持って地上に遣わされて意味、その必要性を知っています。1章2-3節には「 2この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。3御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」と説明されていますし、例えばピリピ2章でも次のように教えられています。
「6キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、8自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。9それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。10それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、11すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」
このような説明を見ると、むしろキリストは人間の肉体を持つ必要があったことが分かりますね。すべては、人間のことを知っている神様の完全な計画であったのです。神様が御子として肉をもって地上に下ってくださらなかったら、私たちは神様(その愛)を100%知ることはできなかったのです。
ライフチャーチ 大谷 信道