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2020年6月25日(木)
へブル人への手紙 2:9 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
【ポイント】 ①イエス・キリストが神であるか、否かを考える 私たちが「イエス・キリストを信じる!」と告白したとしても、もし私たちがイエス・キリストについて自分の思い込みや間違った理解をしていたとしたら、それは「偶像」を信じているのと同じことになってしまいます。もちろん、間違ったイエス・キリスト像を教え込まれてしまった可能性もあるかもしれませんが、繰り返し学んでいるように、自分で聖書が読める時代に生きる私たちは、すべてを間違いを教えた人の責任にすることはできません。
ですから、私たちがイエス・キリストの名を語る偶像礼拝者にならないためには、イエス・キリストを聖書からしっかりと知ることが重要なのです。他者から教えられたことが、聖書に記されているのかいないのか、その聖書解釈が正しいの否かを自分で確認する必要があるのです。それは、自分の為だけでなく、自分の子ども、友人のためでもあります。私たちが間違ったイエス・キリスト、間違った福音を伝えるときに、伝えた人の信仰にどれほどの悪影響を与えることになるのか、その責任について知っている必要があります。
これも、繰り返しになりますが、もし私たちが本当に正しくイエス・キリストについて理解していれば、私たちは決してマリア、天使、聖人などに興味を持ったり、何かしらの助けを求めたいというような気持ちを持つようになったりすることは絶対にないはずなのです。イエス・キリストは「神」であり、「神の本質の完全な現れ」ですから、もし、神様を正しく知ることによって満足や平安を得ることができなければ、この地上にも宇宙にもそれ以上のものは残っていないのです。
「死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けに」なった方、死を「神の恵みによって、すべての人のために味わわれた」方、で満足できない人は、永遠に満ち足りることがない欲求不満、孤独、不安の中に生きることになるのです。
大谷 信道