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2020年6月26日(金)
へブル人への手紙 2:10 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。
【ポイント】 ①イエス・キリストが神であるか、否かを考える その2 「イエス・キリストは単なる人間だったんじゃないの?」「なぜ神がわざわざ人間として現れるの?そんな神話いっぱいあるんじゃない?」「聖書は唯一神を教えているのに、ナザレ出身のイエスが神であり得るの?ユダヤ人だったイエス自身がそんなこと考えるはずないでしょ!」イエス・キリストについて、私たちクリスチャンがしっかりと考え、はっきりと答えるべき質問がたくさんあります。
今日の聖書個所は、上の質問にはっきりと答えています。しかも、それは「受け身」でも「逃げ」でもなく、「積極的」で「攻め」の回答なのです。まず、この説明の前提は、物分かりの悪い人間は、神様の本当の姿を理解していなかったという事実があります。イエス様の時代の祭司たち、パリサイ人たちの姿を見れば、彼らがすでに旧約聖書に啓示されている神様の姿、特に愛、あわれみ、恵みについて全く理解していなかったこと、さらにその神様と個人的な愛の関係を求めることに無関心であったことが明らかです。ですから、神様は「多くの子たちを栄光に導く」ために、肉体をもって地上に下られたのです。
さらに、地上に下られた御子は、ご自身の愛(天の父の愛)を物分かりの悪いに人間にもはっきりと分かるように、私たちのために「多くの苦しみ」をあえて受けられたのです。その理由は「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)ということばを見ればよく分かりますね。
私たち人間の罪深さ、頑固さ、無関心さよく知っている神様は、一人でも多くの人が神様の愛、恵み、あわれみ(栄光)を見て、神を愛する(神に栄光を帰する)者と変えられることを望まれているのです。
人間が神様の愛に気づき、神様を愛する者とされるための「キリストの福音」より良い方法があれば、是非考えてみましょう。
大谷 信道