デイリーディボーション 6月27日(木)

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デイリーディボーション 6月27日(木)

2019年6月27日(木)
マルコによる福音書 10:42-45 42そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。43しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。44あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。45人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
【ポイント】 ①分裂の危機 その2 ヤコブとヨハネ(その母)の行為は、他の弟子たちの怒りを招きました(10:41)。なぜなら、「誰が弟子の中で一番偉いのか?」という問題は、ヤコブとヨハネだけでなく、弟子たち全員にとって最も重大な関心事であったからです。自分が一番偉くなれないとしても、一番弟子の支持者になっておけば、後に良い地位を得られると考える弟子もいたことでしょう。この問題がどれほど深刻であったのかは、ルカの福音書22章を見ると明らかです。ルカは弟子たちが「最後の晩餐」の席で「誰が一番偉いのか?」という議論を行っていたことを記録しています。イエス様の十字架の直前になっても、その場での説教を聞きながらも、弟子たちの最大の関心事は「誰が一番偉いのか?」ということだったのです。十字架の直前の弟子たちは「一致」とは真逆の「争い」「分裂」に近い状態だったのです。。
イエス様はこの状況をよく理解されていました。そして「誰が一番偉いのか?」という問題は、弟子たちだけでなく、罪の中にある人間、つまりすべての人間の問題であることをご存知でした。ですから、イエス様は「みなに仕える者になりなさい」という倫理規範だけを教えるのではなく、その根拠を教えられたのです。それは「45人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」です。「誰が一番偉いのか?」と考えてしまう人間の性から抜け出す唯一の方法は、イエス様を愛することなのです。私たちが一番愛するイエス様が、一番偉い者であることを捨て、自分のためにいのちを与えるために十字架で犠牲となるという「しもべ」の生き方を自ら実践されたのであれば、私たちはイエス様のへの愛ゆえに「一番偉くなりたい」という罪の感覚を捨てることができるのです。それをしないことは、イエス様の愛、イエス様の十字架を無視し、無駄にすることになってしまうのです。
弟子たちは、イエス様の十字架、復活を目撃し、聖霊が与えられることによって、はじめてこのイエス様のみことばの意味を理解できたのです。私たちも同じです。イエス様がしもべとして自分に仕え、自分の罪のために十字架で死んでくださったことの意味を頭で理解し、その愛を心で感じ、イエス様の愛を受け取るときに、「一番えらくなりたい」という罪の感覚から自由にされるのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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