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2022年6月29日(水)
マタイの福音書 27章41-46節 41同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。42「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。43彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」44イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。45さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。46三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
【ポイント】 ①「救い」とは何かを考える イエス様が明らかにされた「救い」とはどのようなものなのでしょうか。イエス様はマルコ16章16節で「救い」について「16信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」と教えられました。イエス様が人々を救うためにこの世に遣わされたことは間違いありません。
しかし、イエス様はヨハネの福音書14章27節で「27わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。と教えられ、さらに16章33節では「33わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」と語られました。
この両方から分かることは、イエス様の「救い」を受けた者は「平安」が与えられるということです。「救い」の結果が「平安」だとすれば、私たちは「救い」と「平安」を別々に考えることはできないわけです。むしろ、私たちの救いの喜びは、その後に味わう「平安」から生まれてくるものだと考えても良いかもしれません。
このように考えると、十字架上のイエス様に「自分を救え」「神に救ってもらえ」と叫んでいる人々は、本当の「救い」そして「平安」について全く理解していなかったということが分かります。なぜなら、イエス様が十字架から脱出できたとしても、不思議な力で神様がイエス様を脱出させたとしても、イエス様の心に「平安」は与えられないからです。十字架からの脱出はイエス様にとっての「救い」などではないからです。
私たちの救いも同じです。人間は一時的な苦しみからの解放が「救い」であると勘違いし、藁にもすがる思いでいろいろな神に願い事をしたりするものです。たしかに、心身の苦しみからの解放は大きな喜びを伴うものですが、それは決して永遠に続く「平安」とは異なる、一時的な安らぎに過ぎません。もちろん、耐え難い苦痛を伴う病やけがはたくさんありますから、心から神様に助けを求めることはごく当たり前のことですし、神様がその祈りに応えてくださるケースもたくさんあることでしょう。しかし、イエス様が命をかけて与えようとされた救いや平安はそのようなものとは違うのです。
先に引用したヨハネ16章33節を再度確認してみましょう。「33わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」イエス様が与えられた平安は、この世の患難の中にあっても消え去ることがないものなのです。そして、その平安はこれまで繰り返し学んでいる通り、神様との愛の関係によって実現する者なのです。
神様との愛の関係を築くこと、神様の愛に身を委ねること以外に本当の「救い」も「平安」もないことを覚えておきましょう。
ライフチャーチ 大谷信道