誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。
2021年6月日30日(水)
マタイの福音書 6:1-4 1人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。2だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。3あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。4あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
【ポイント】 ①信仰の「形骸化」&「宗教化」に注意 「人に見られたい」「人にほめられたい」という欲求(自己顕示欲・承認欲求)は、すべての人間が持っている罪の性質の代表的なものの1つです。自己顕示欲・承認欲求はは大変自然なもので、子どもたちにとっては、親からほめられること、認められることは成長の大きなモチベーション(原動力)になりますし、ほめられることによって親からの愛や信頼を実感することもできます。しかし、親からの純粋な愛を受け続けた子どもたちは、無理して自己顕示をしなくても、親は自分のことを理解し、受け入れ、愛してくれていることを知り、心が満たされていきますから、自己顕示欲・承認欲求はだんだん小さなものへと変わっていきます。これを、この世では人間の成長とか成熟と呼びます。さらに、天の父の存在を知り、神様が人間の親以上に自分を理解し、愛してくれていることを知るときに、平安、満たしはより大きなものになり、過剰な自己顕示・承認欲求は罪の性質に属する者であることを知るようになるのです。
恐らく、イエス様はこのような視点から、パリサイ人や律法学者を見ていたのだと思われます。神様との愛の関係が築かれている人は、自己顕示欲から解放され、人に見られること、人にほめられることに大きな喜び覚えない人へと変えられているはずですから、人から分かる形で施しをしたり、自分の善行を人にほめてもらいたいという強い欲求を持っていないはずだと考えられたのでしょう。
つまり、ここでも問題は、パリサイ人や律法学者が神様との個人的な愛の関係が築かれていないこと、神様の愛で心が満たされていない事であって、その結果として現れている「自己顕示欲・承認欲求」から起きている行動を禁止しているわけではないということです。もちろん、人前で施しをすることを禁止された人は、非常に大きな欲求不満を覚えるでしょうから、自分の心が自己顕示欲や承認欲求によって支配されていることを知るチャンスにはなると思います。その自覚がないまま、熱心に宗教活動・ボランティアをしている人もたくさんいるのではないかと思います。しかし、問題の解決のゴールは問題行動を止めることではなく、天のお父さんの愛に満たされることなのです。
自分の原動力が自己顕示欲・承認欲求になっていないか、正直に振り返ってみましょう。そこに気づくことが、神様の愛に満たされる第一歩になります。人からほめられること、人から認められることは、あなたの心を永続的に満たすことはできません。人からほめられるためには、あなたはずっと頑張り続けなければなりません。神様の愛に満たされると、そのような欲求や不安・ストレスから解放されることになりなるのです。
ライフチャーチ 大谷 信道