デイリーディボーション 6月7日(水)

誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 6月7日(水)

2023年6月7日(水)
【今日のみことば】 ローマ人への手紙 14章4-6節 4あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。5ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。6日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。
①多様性のためにチャレンジへの注意点 昨日は「多様性」の大切さについて触れましたが、一つ注意があります。「多様性」は聖書の中に見ることができるクリスチャンたちの姿なのですが、それは決してクリスチャンとしての「目的」ではないことを理解している必要があります。別の言い方すれば、「多様性」はイエス様の愛で互いに愛し合うことを実践する中で現れる「副産物」であって、私たちクリスチャンの真の目的は、キリストの愛によって一つとなることです。
キリストの愛による「一致」は、英語では「unity・ユニティー」という言葉が使われ、「uniformity・ユニフォーミティー」、訳すと「統一、画一」という言葉は使われません。つまり、私たちクリスチャンはキリストの愛によって愛し合うことによって「ひとつ」とされるけれども、そこにある一人ひとりの人間の姿は多種多様であるということなのです。残念ながら、このキリストの愛による「一致」を勘違いしているクリスチャン(特に保守的、原理主義的クリスチャン)が多いのです。使徒の時代の教会の姿は、イスラエル生まれでヘブライ語を話すことができる生粋のユダヤ人、アジアの各地で生まれヘブライ語を話すことができないユダヤ人、多種多様のバックグランドをもつ異邦人が含まれ、その中には奴隷の身分であった者も、その主人たちも含まれていました。そのような多様な人々が、キリストの愛で一致し、キリストのからだである教会を建て上げていたのです。
それでは、そのように多種多様な人々の集まりであるクリスチャンの群れがなぜ愛し合い、一致を求めることができたのでしょうか。言うまでもなく、その根底には、罪人を愛し、受け入れ、我が子としてくださった神様の愛があります。それが、今日の個所のパウロの「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」ということばの意味なのです。つまり、神様が愛し、受け入れ、義と認め、子とされた人を裁くことは、神様の判断に異議を唱え、神様の決定が間違いであったと、神様に反論することになってしまうわけです。さらに、そもそも自分自身も罪深い状態のまま、キリストを信じる信仰ゆえ、義と認められた者であって、決して罪を克服し、行ないにおいても完全な者となったわけでないのです。この2点を正しく理解していれば、私たちクリスチャンは、他のクリスチャンをさばくことはできないわけですし、この2点ゆえに、互いに愛し合いなさいというキリストの命令に一致することができるのです。
特に、今日の個所の問題は、ユダヤ教的な習慣を捨て去ることができないユダヤ人クリスチャンが、その習慣を続けてしまう理由は、悪意によるものでも、罪をおかすことを楽しんでいることでもなく、その行いが神様を喜ばせるものであると思っているからです。律法を正しく理解している人からすれば、そのようなユダヤ人クリスチャンの行為は愚かに見えるかもしれませんが、彼らの「主のため」という思いからの行為を批判したり、さばいたりしてはならないのです。
もしろん、長い目で見れば、ユダヤ人クリスチャンがイエス様が廃止された律法から自由にされて、恵みを十二分に味わうことができるように変えられて行く必要はあるでしょう。しかし、ユダヤ人クリスチャンだけでなく、私たちすべてのクリスチャンが古い価値観から、新しいキリストにある価値観に変えられて行くのには時間がかかるものなのです。パウロはそのための寛容と忍耐の必要を教えているのです。
ライフチャーチ 大谷信道


side_worship side_info