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2022年6月7日(火)
マタイの福音書 26章55-57節 55そのとき、イエスは群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしをつかまえに来たのですか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえなかったのです。56しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。57イエスをつかまえた人たちは、イエスを大祭司カヤパのところへ連れて行った。そこには、律法学者、長老たちが集まっていた。58しかし、ペテロも遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の中庭まで入って行き、成り行きを見ようと役人たちといっしょにすわった。
【ポイント】 ①失敗を通してイエス様のあわれみと恵みを知る 35節を思い出しましょう。「35ペテロは言った。『たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。』弟子たちはみなそう言った。」弟子たちは、嘘を言っていたのでしょうか、それとも、同調圧力からペテロに調子を合わせたのでしょうか。決してそのようなことはないと思います。彼らは、その時点では、心の底から「イエス様と共に死ぬ!」と覚悟を決めていたはずです。ここに、人間の頭の中で考えている覚悟と現実の乖離を見ることができるのです。
認めることに難しさを覚える人が多いかと思いますが、私たちは「自分の覚悟(理想の行動)」通りに行動できないことが多々あるという現実を受け入れる必要があります。ペテロのように、死を覚悟してイエス様に従うことを宣誓することが、信仰の告白であると思っている人もいることでしょう。しかし、イエス様は、弟子たちの「自分は死んでもイエス様を守り、イエス様に従って行く」という確信が、いとも簡単に崩れ去ってしまうことを最初からご存知でした。これは、迫害や危険が及んだ時に自分の命捨てられることが信仰の条件では決してないことを示唆しています。つまり、その告白が空しいものであることを知りながら、弟子たちの中にあるイエス様を愛する(愛そうとする)思いを受け取られ、それを信仰として信仰として受け入れてくださっていたということです。さらに、イエス様は、弟子たちがイエス様を見捨てるという行動を通して、砕かれ、さらにイエス様を愛する者へと変えられて行くことをご存じだったのです。そこに、イエス様のあわれみ、恵みがあるのです。
ですから「イエス・キリストを信じる」と口で告白すれば救われるというような、表面的で単純化された教えには気を付けなければならないのです。イエス様は、口で告白しようがしまいがその人が心からイエス様を愛し、イエス様に従って行きたいと思っているかどうかをご存知だからです。バプテスマ(洗礼)についても同じ事が言えます。バプテスマを受けていようがいまいが、イエス様はあなたのイエス様に対する愛についてご存知なのです。「信仰告白したから大丈夫」「バプテスマ(洗礼)を受けたから大丈夫」などと思ってはならないということです。どのような儀式、礼典を授かっていようが、あなたが個人的にイエス様を愛していなければ、それらは全く無意味なものになり得るのです。
反対に、江戸時代の踏み絵のような試練に遭った時に、恐怖のあまり絵を踏んでしまったとしても、イエス様から逃げ、三度も知らないと言ってしまったペテロがイエス様のあわれみの中に歩むことができたのように、その表面的な行為が信仰(愛)の無さを決定づけるものではないということです。もちろん、自称クリスチャンであったとしても、心に何の痛み、葛藤を覚えずに踏み絵を踏んでしまった人は、最初からイエス様に対する愛が無かったことになるわけです。イエス様はそのような人にもあわれみを持って接してくださるでしょうが、最終的なポイントは、その人がイエス様を愛する者と導かれるか否かなのです。
今日の個所から、私たちの信仰の確信がいかにもろく、イエス様のあわれみがいかに大きいのかを再確認しましょう。
ライフチャーチ 大谷信道