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2021年6月9日(水)
マタイの福音書 5:1-4 1この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。2そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。3「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。4悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
【ポイント】 ①神様を愛する者の姿を知る きちんと収入がありながら十分の一献金をささげていないクリスチャンがいます。私は教会員のメンバーの収入も、その十分の一の額も知りません。また、誰がいくら献金しているかも知りません。しかし、「手取りの10分の1はささげています」とか「気持ちだから、割合とか金額は関係ないんだよ」みたいなことを教えている人を見るときに「ああ、この方は十分の一献金はしていないのだな」と察する時はあります。そのようなときに、私は大変残念な気持ちになります。なぜなら、収入の十分の一を神様に対して惜しむ人は、神様をそこまで愛していないことが明らかだからです(10分の1献金をしていなかったときの自分を知っているので分かるのです)。反対に、痛みを覚えながらも十分の一をささげている人がいれば(それが誰だかは知り得ないのですが)、大きな喜びを覚えます。なぜなら、その方が神様のことを本気で愛していることが分かるからです。
最低限の生活を維持するためには、ある一定の額のお金が必要ですから、相対的に収入が少ない人ほど十分の一献金はチャレンジングになり、収入が多い人ほど負担は少なくなります。ですから、確かに十分の一という割合を律法主義的に絶対視することはよくないことかもしれません。しかし、人が収入の20%をささげたとしても、それが自分の神様の愛に対する精一杯の応答であるとう確信がなければ、十分にささげたとは言えないのでしょうし、収入の3%でも、神様への愛の応答の確信があれば、十分にささげたことになるのかもしれません。
さて、マタイ5章の1-12節を見るときに、先に話した十分の一献金と同じ原理原則を見出すことができます。それは、神を愛する者の生き方(生き様)です。イエス様は、「心の貧しい者になりなさい」「悲しむ者になりなさい」と、神様の祝福を受けるための方法を教えているのではありません。多分、イエス様が「心の貧しい者」「悲しむ者」を見るときに、その人たちが神様を愛しているのだと強く感じられた(それを見る前からイエス様はすべてをご存じなのですが)のでしょう。ですから、神様を愛して歩んでいる人は、この地上では苦しいこと、辛く感じることがあったとしても、必ずその報いを受けるであろうという約束をされたのです。
とはいえ、祝福を受けるための方法として、心を貧しくする努力や悲しむ努力をしてみることも悪くないでしょう。十分の一献金も同じです。神様を愛する者は、その取り組みが長く続くでしょうし、そうでない人は途中で馬鹿らしくなってきたり、あきらめたりしてしまうことでしょう。しかし、その時に、自分の神様に対する愛のいい加減さにも気が付くことができるのです。
いずれにしても、この世での成功、この世での報いを受けることが自分の幸せだと思い、それを追い求めている人、そのために神様すら利用しようとする人は、先に用意されている祝福を受けることができないのです。反対に、神様を愛することを一番にしている人は、既にその祝福を味わうことができるのです。
ライフチャーチ 大谷信道